考えすぎ -5ページ目

人間の能力

人間の能力をあまり見くびってはいけない。

有能だからこそ、愚かな言動をすることもできるのだ。

将来について楽観的か悲観的かに関わらず、いずれにしても、

人間の能力を軽視していると見誤ることになる。


自惚れよ、というのではない。

むしろ逆で、より謙虚でなければならないにも関わらず、

なぜか影響力を持ち過ぎているのだ。


訳もわからずに既に与えられてしまっているギフトを持て余している間にも、

本人が気付かないうちに数々の修復不能な犠牲をもたらしてしまうことがあるし、

それが可能なのが人間だ。

その気になれば、神に成ることも機械に成ることもできてしまう。

それが人間。

本来ならそう成れるだけの徳を積んでいたり、合理的で理知的な振る舞いができて周囲から認められていたりするわけでもないにも関わらず。


変に美化してはいけない。

より一層の注意を払いながら、しかし人間に生まれついた以上は覚悟を決めたら肚を括って、

身の丈に合った生きかたに努めていくほかない。

“それ”が無駄かどうかの基準

「無駄なものなんて何一つない」

それは真実だけれども、それが常に真実であるわけではない。

なぜなら、

ある対象が無駄になるかならないかを決めているのは

ひとえに、その対象を扱い認識する側

だからだ。


何事も、認識ひとつでいつでも無駄になるし無駄にできる。

無駄にしているかどうかを決めているのは、その対象そのものの持つ性質や状態ではなく、

それに対する認識と関わりかたのほうである。

認識というのは、それほど強力で残酷な営為なのだ。


行動することよりも、より慎重に丁寧に気をつけていかなければいけないのは

認識のほうだと思う。

(誤解を恐れずに言えば)認識のためなら行動を犠牲にしても構わない、と思っている。

もちろん両者は切り離せないし、行動あっての認識(の継続)でもあるし、

そもそも行動と認識を切り離して捉えること自体に無理があるようにも感じる。

「思う」こと自体が既に行動とも言える。

「発言」した時点で行動になる、と捉える人もいれば、

物理的に身体を動かして初めて行動と言える、と考える人も多いが、

どの場合でも、その前後で世界に影響して少なからず何かが伝播していくことは事実なのだから、

程度の差はあるにしても、認識そのものを軽視してはならない、思っている。

人間にとっての時間、そして「恩送り」

物理学において、時間の進行は必ずしも一方向ではなく

可逆的なのだそうだ。

映像の逆再生と同じような現象が充分に(物理学的には)存在するし、そのことも確かめられているという。

宇宙の初まり「ビッグバン」の時に、

プラスの電荷を持つ陽子が原子核の中に配され、マイナスの電荷を持つ電子がその周囲に帯びるようになったのが今、私たちが生活している世界なのだそう。

しかし、「ビッグバン」の時には同時に、

マイナスの電荷を持つ量子が原子核の中に配され、プラスの電荷を持つ量子がその周囲に帯びるような世界(パラレルワールド)も生じているはずなのだとか。

そうでなければ物理学的に説明がつかないのだという。


物理学においては、そうかもしれないが、

現実にこうして生きている私たち人間にとって、そうは言っても時間は不可逆的である。

決して遡ることができない以上、進むしかないのだから、

恩返しは(人間にとっては)不合理でしかない。

社会システムなど、より大きな存在にとっては違うかもしれないが、

少なくとも人間は「恩返し」よりも「恩送り」するのが自然体で心地よく過ごせる在りかたなのだと思う。


もちろん、何(誰)を対象に「恩送り」するかを決めるのは当然ながら本人だし、

そこに本人の人生観や意志が現れるのだろうと思う。

(流されて生きている人でも、流されながらも最終的に本人が決めて動いていることに変わりはない。)

”本気のメッセージを。。。”

長年にわたる親の介護経験など、ご自身の家庭環境での葛藤と苦しみをバネに

現在も「ヤングケアラー問題」のような世間であまり知られていない社会的弱者に主に焦点を当てて社会福祉啓蒙活動を続けていらっしゃる、町亞聖さんのブログ記事です。


たまたま最新の記事が強く印象に残ったので引用させて頂きましたが、

いつも頻繁に熱心に活動されていて、その様子やご自身の想いを綴っていらっしゃいます。

私には(少なくとも今の私には)到底真似できません。素晴らしいかただと思います。


デザインにおける禁忌

仕上がりだけをデザインしてはいけない。

むしろプロセスがデザインされていなければならない。

生命活動のシステムの本質

生命活動のシステムを“閉鎖系”として捉えようとすると、
その本質を見誤る。

生命活動のシステムは“開放系”であり、
端的には、「接ぎ木」や「寄生」をよく観察するのが手っ取り早い。

「ありのままで生きる」ことは難しい

「ありのままで生きる」ことほど人間にとって難しいことはない。


生まれて間もない赤子や幼な子たちは「ありのままに生きている」が、
「ありのままで生きる」ことをしている訳ではない。
まだ、そういう意志や意識を継続させられるだけの物心がついていないから。

自意識が芽生え、自我が騒ぎ始めてアイデンティティを確立しようとすればするほど
「ありのままで生きる」ことのハードルは上がっていく。
気付いてしまったことを気付かなかったことにすることは事実上できない(もちろん事故や老化で根本的に忘れてしまうことはあるが、それは自分でそうしていることには成らない)。

「ありのままで生きる」ことを勧めるキャッチコピーをよく見かけるけれども、
言うほど簡単ではないどころか、その実践そのものが即ち修行になってしまうくらい非常に難しいことだと感じる。
本来なら極めてシンプルなことであるはずなのも事実だが、
言葉の印象とは裏腹に非常に難しいことを簡単そうに見せかけて推奨するのは、心理的な詐欺行為に近いのではないのだろうか。

特に荒んだ心理状態になりやすい昨今、そういう聞こえのいい言葉を弄んで金銭的収益が発生しているような状況に対しては
個人的には、違和感と警戒心と疑念を禁じ得ない。

気付くかどうかで世界の姿が変わる

「こうなったらいいな」
「こうして欲しいな」
と内心で期待するのは、本人の自由だ。

しかし、相手が実際にそうするかどうかは相手の問題であって相手の自由。

アドラー心理学で「課題の分離」と呼ばれているのも、このことだろう(ロングセラー本『嫌われる勇気』を読んで浅く仕入れただけの、私なりの理解の範囲内ですが)。

ところが現実には、
「こうなったらいいな」
「こうして欲しいな」
が高じて(言わなかったとしても)態度や雰囲気に出てしまい相手に伝わってしまう時がある。
逆の立場で、相手がそれを口にしていなかったとしても伝わって来る時もある。

もちろん、伝わって来た“その感覚”を受け取るかどうかも自由だ。
それもまた受け取る本人の自由だから、ここでも「課題の分離」の理屈は成り立つ。
成り立つけれども、人間は気持ちの生き物だから、そう簡単には行かないことも多い。
頭ではわかっていても気付いてしまうと、どうしても気持ちが泡立ったり波打ったりしてしまう。

気付くかどうかで、世界がガラッと変わってしまう時は実際、少なくない。
多くの人が、生きていく時間が積み重なるにつれて感じているところではないかと思う。
「気付く」ということは、言い換えれば「(それまで意識的には認識していなかったことを)認識する」ということだろう。
認識することによって、世界が姿を変える・・・。
この話、どこかで聞いたことがある。
そう、量子力学の「二重スリット実験」の話。

脳内の情報伝達シグナルも、神経細胞のシナプスを介して神経網を駆け巡っている電気なのだから、
基本的には量子のミクロの世界のはず。
だとしたら、脳が捉えている世界がその認識の仕方によって姿を変えることは当然だとも言える。

ひと言で要約すれば、
「本人がそれを現実だと信じ込んでいれば、それがその本人にとっては現実なのだ」
ということになると思う。
・・・しかし、それを事実として公に認めてしまったら、たちまち社会(的振る舞い)が正当性を失ってしまい立ち行かなくなる。
だから、こういう事情についてはアートなど表現の世界や宗教的枠組みの中で言われるだけに留めるよう現代社会では統制されているのだろう、
ということは想像に難くない。
もちろん、あくまでも想像の域を出ないことであり、エビデンスも根拠も歴史的な検証結果を踏まえているわけでもない。

強いて言えば、こうして想像することによって(まさに認識の作用によって)本来はそうでなかったかもしれない世界が実際にそのような姿になってしまう、
ということは充分にあり得る話ではあるけれども。

まあ、想像力は創造力ってことで。
少なくとも、まだ今は言論や内心の自由が法的に認められていますし、
個人的な意見として言うだけならタダですから(タダほど高いものはない、とも言いますが・・・)。

恩返しは争いの始まり

嘘つきが泥棒の始まりなら
きっと、恩返しは争いの始まり。
恩返しをしても、されてもいけない。
恩送りをしたり、促していかないといけない。

幸せの正体

幸せとは、
「自分と世界全体の境界がなくなっていくプロセス」を指して言うのかも。
「自分と世界全体の境界がなくなった状態」のことではなくて、そこに収束していくプロセス。