“それ”が無駄かどうかの基準
「無駄なものなんて何一つない」
それは真実だけれども、それが常に真実であるわけではない。
なぜなら、
ある対象が無駄になるかならないかを決めているのは
ひとえに、その対象を扱い認識する側
だからだ。
何事も、認識ひとつでいつでも無駄になるし無駄にできる。
無駄にしているかどうかを決めているのは、その対象そのものの持つ性質や状態ではなく、
それに対する認識と関わりかたのほうである。
認識というのは、それほど強力で残酷な営為なのだ。
行動することよりも、より慎重に丁寧に気をつけていかなければいけないのは
認識のほうだと思う。
(誤解を恐れずに言えば)認識のためなら行動を犠牲にしても構わない、と思っている。
もちろん両者は切り離せないし、行動あっての認識(の継続)でもあるし、
そもそも行動と認識を切り離して捉えること自体に無理があるようにも感じる。
「思う」こと自体が既に行動とも言える。
「発言」した時点で行動になる、と捉える人もいれば、
物理的に身体を動かして初めて行動と言える、と考える人も多いが、
どの場合でも、その前後で世界に影響して少なからず何かが伝播していくことは事実なのだから、
程度の差はあるにしても、認識そのものを軽視してはならない、思っている。