気付くかどうかで世界の姿が変わる | 考えすぎ

気付くかどうかで世界の姿が変わる

「こうなったらいいな」
「こうして欲しいな」
と内心で期待するのは、本人の自由だ。

しかし、相手が実際にそうするかどうかは相手の問題であって相手の自由。

アドラー心理学で「課題の分離」と呼ばれているのも、このことだろう(ロングセラー本『嫌われる勇気』を読んで浅く仕入れただけの、私なりの理解の範囲内ですが)。

ところが現実には、
「こうなったらいいな」
「こうして欲しいな」
が高じて(言わなかったとしても)態度や雰囲気に出てしまい相手に伝わってしまう時がある。
逆の立場で、相手がそれを口にしていなかったとしても伝わって来る時もある。

もちろん、伝わって来た“その感覚”を受け取るかどうかも自由だ。
それもまた受け取る本人の自由だから、ここでも「課題の分離」の理屈は成り立つ。
成り立つけれども、人間は気持ちの生き物だから、そう簡単には行かないことも多い。
頭ではわかっていても気付いてしまうと、どうしても気持ちが泡立ったり波打ったりしてしまう。

気付くかどうかで、世界がガラッと変わってしまう時は実際、少なくない。
多くの人が、生きていく時間が積み重なるにつれて感じているところではないかと思う。
「気付く」ということは、言い換えれば「(それまで意識的には認識していなかったことを)認識する」ということだろう。
認識することによって、世界が姿を変える・・・。
この話、どこかで聞いたことがある。
そう、量子力学の「二重スリット実験」の話。

脳内の情報伝達シグナルも、神経細胞のシナプスを介して神経網を駆け巡っている電気なのだから、
基本的には量子のミクロの世界のはず。
だとしたら、脳が捉えている世界がその認識の仕方によって姿を変えることは当然だとも言える。

ひと言で要約すれば、
「本人がそれを現実だと信じ込んでいれば、それがその本人にとっては現実なのだ」
ということになると思う。
・・・しかし、それを事実として公に認めてしまったら、たちまち社会(的振る舞い)が正当性を失ってしまい立ち行かなくなる。
だから、こういう事情についてはアートなど表現の世界や宗教的枠組みの中で言われるだけに留めるよう現代社会では統制されているのだろう、
ということは想像に難くない。
もちろん、あくまでも想像の域を出ないことであり、エビデンスも根拠も歴史的な検証結果を踏まえているわけでもない。

強いて言えば、こうして想像することによって(まさに認識の作用によって)本来はそうでなかったかもしれない世界が実際にそのような姿になってしまう、
ということは充分にあり得る話ではあるけれども。

まあ、想像力は創造力ってことで。
少なくとも、まだ今は言論や内心の自由が法的に認められていますし、
個人的な意見として言うだけならタダですから(タダほど高いものはない、とも言いますが・・・)。