考えすぎ -7ページ目

わからないまま尊重して大切にする「畏怖」の気持ち

わからないことに対して
わからないまま
わからないと思いながら尊重して大切にする。
それが「畏怖する」ことなのだと思う。

ちゃんと畏怖することができるようになるためにも、
まずは、ちゃんとわかろうとすることが大切。

心の底から納得がいくまでわかろうとする過程で
必ず、己の一生かかってもわかり得ないほどの巨大な世界に直面し圧倒される時が来る。
その時、初めて畏怖することを覚えるし、
わからないことを
わからないまま尊重して大切にしようと思える心も芽生える。

この謙虚さは、生きる上での揺るぎない指針にもなるし、
自信と安心感の源にもなる。
自分には到底及ばないような大きな存在を確信できることの恩恵は
生涯続いていくし、その影響は計り知れない。

ただ特定の宗教に打ち込めということではない。
むしろ逆で、
一度、徹底的に疑ってみるべきである。
「我思う、ゆえに我あり」
と言って、思惟の存在を絶対疑い得ないものとして根底に打ち立てたデカルトは
直交座標系を考案した人でもあり、
近代科学の祖とも言われている。
しかし近年、その
思惟
の絶対性が揺らぎつつある。
デカルトが打ち立てた指針は偉大だったが、それも絶対ではなかったように思われる。

デカルトは、思惟の存在を疑いきることができなかった。
それゆえに「わからないもの」を「わからないもの」として畏怖する感覚も欠落していたかもしれない。
現代社会は、科学信仰に毒されているようにも思われる。
似非科学のことだけを指しているのではなく、
純粋な科学的営みについても、現場の科学者こそ今も懸命に研究を続けていらっしゃるに違いないと思うが、
そこに群がる商売根性が、自然科学の概念を“宗教化”し社会に蔓延させているのが現代社会の実態ではないのだろうか。

「守破離」のプロセスは、とても大事だと思う。
いったん、しっかり掴まなければ、
まともに手放すこともできない。
しかし、掴んだままでは進展がない。
あくまでも、最終的には手放すために、いったん、しっかり掴んでおく。
この順序を決して忘れてはいけないのだと思う。

わからないことに対して
わからないまま
わからないと思いながら尊重して大切にできるようになるためには、
いったん、徹底的にわかろうとする必要がある。
本気でわかろうとして納得できなければ死ぬに死ねない思いで体当たりし、
その過程で気付かされるこの世界の深淵な何かに触れた時、
それをわからないまま、有り難くその恩恵にあずかり、
その存在の力を借りて生きる道が拓けていくのだろう。

世界の成り立ち

そもそも世界は、膨大な量の仮説の上に成り立っている。

世界の構成要素である仮説のうち、もっとも根本的で基本的な仮説でさえ

いまだに証明されていないし仮説のままである。


きっと、その仮説が正しいかどうかよりも、

その仮説が広く受け容れられていることのほうが重要なのだ。

広く受け容れられることによって、その仮説は事実上の公理となり、

世界を支える礎になるのだから。

禮と儡

不確実だからこそ賭ける価値がある
思い込みから拓ける世界に禮
確実なら賭ける余地もなかったろう
囲い込みから白ける腐敗に儡

指針

家族のために生きるのでも、

仕事のために生きるのでもなく、

あなた自身のために生きよう。

あなた自身の声に従って生きよう。

それが、とりもなおさず世界の声に従って生きることでもあり、

世界の一員としてのあなた自身を伸び伸びと生きることに他ならないのだから。

Ameba18周年クイズの答えは…



ここは、「お寿司のネタ」と言いたかった。

でも、ぬいぐるみ欲しさに

置きに行ってしまいましたことを

心からお詫び申し上げます(私、緑色が好きなんです)。


A.投稿ネタ18年後の未来、なにしてる?

 

 

 

 

すべてをありのままに認識するセンス

西洋キリスト教思想から生まれた自然科学(サイエンス)。
「科学」の名が示す通り、分類法によって世界を細分化し認識していくこのアプローチは、
遡れば、古代西洋哲学者のアリストテレスに端を発する。
プラトンの「イデア論」に異議を申し立てたアリストテレスは、自然科学の祖となったが、
裏を返せば、その立ち位置は「人間の営みにおけるイデアの軽視」の象徴でもある。

イデアは人間の創造性の源である。
これを認めないことによって、確かに謙虚な態度で自然研究を進めることができた。
しかし、それが行き過ぎた結果、かえって自然破壊を招いている。
生物学者の福岡伸一さんが『生物と無生物のあいだ』『動的平衡』等で説明されている通り、
実際の生物の営みそのものを知ろうとして生物を切り刻めば、その生物は死んでしまうから、
結局のところ生物が“生きている間”どのような営みをしているかを知ることはできない。
これが現代科学の主流となっているアプローチの最大の盲点であることは
ここであえて説明を加えるまでもないくらい自明であるはずだ。

もちろん、現場で研究している科学者たちは、そのことをよく熟知している。
だからこそ未知の領域のことについて、少しでも「科学的に誠実に」解明できる手段を探し、
日夜、身を投じて研究に心血を注いでいる。
それはそれで、とても貴重な人間らしい創造的営為のひとつであると思う。

しかし、もちろんそれだけが人間らしい創造的営為ではない。
細分化して認識することによる科学的アプローチに拠らない創造的営為が他にもたくさんあって、
その代表がアートであり、まさにアートこそイデアからの創出に他ならない。

かつて、古代西洋宗教の多くがプラトン主義を採用した。
数学の祖ピタゴラスも、その一人であった。
現代でこそ自然科学(サイエンス)を根底から支え、最も純粋な学問の一つになっている「数学」だが、
かつては数秘術や占星術など、現代では「宗教」という文脈で認識されるような営為をその根底から支えていたのだ。

問題は、どれが正しいかということではない。
むしろ元々すべては繋がっているのだ。
自然科学(サイエンス)も、アートも、宗教も、別々に営まれているわけではない。
現代社会が、便宜上それらを別々のものと見做しているだけに過ぎない。
元々ひと繋がりの営為を、どうしてわざわざ切り離して捉えなければならない理由があるのだろうか。

すべてをありのままに認識するセンスが今、求められているように思える。

オリジナリティは、人生における本質的な事柄ではない。

オリジナルかどうか、ということは、

あくまでも客観的な評価の指標に過ぎず、

あなたの実際の人生には何の関係もないことだ。


オリジナルでも、そうでなくても、

それがあなたの人生を豊かにするものであれば、それはあなたにとって大切なものだし、

オリジナルでも、そうでなくても、

それがあなたの人生を貧しくするものであれば、それはあなたにとって害になる。

ただ、それだけのことでしかない。


客観的な評価が必要になるのは、そこに「社会」があるから。

社会的な価値を共有することによって、

私たちは集団生活を円滑に行えるようにしている。

そのためのテクニックとして、客観的な評価が必要になってくる。


けれども、それは、あなたの人生における本質ではないのだ。

”乙女座新〜I analyze 私は分析する、自分の在り方他者の在り方に真摯に心を向けていく〜”

「占星術」という事柄について、単発の“占い”的なポジションからではなく、

むしろ研究する側の視点からの捉え方をざっくばらんに伝えてくださっているかたのブログ。


占い師という仕事をしている人が、必ずしも決して特殊な人ではなく、

私たちと変わらない、悩みもするし動揺もする普通の人なのだということを実感できるようになったのも

この人と知り合ってから。

直接お会いして、お会いした後に初めて占い師をしていると知った、

という順番も良かったのかもしれない。認識の順序的に。


デジタル技術とアナログ技術

デジタル技術は、既知の情報を整理して保管し、検索する時に

圧倒的な効果を発揮する。

しかし、未知の事柄を発見するのには向いていない。


アナログ技術は、未知の経験や叡智を私たちに教えてくれる。

困難な状況を突破しなければならない時に

未来を切り拓く力となる。


どちらのほうが、より優れている、ということではない。

それぞれの良さがあり、味がある。

その場に合った方法を、その時々で選んでいけばいいのだ。

本当に価値がある仕事かどうかの判断基準

本当に価値がある仕事かどうかは
「その仕事が収入源にならなくても、その仕事をしたいと思えるかどうか」
を自ら問うことによって、容易に判断できる。

価値観は主観的なものだ。
ある仕事について、価値を感じられない人もいれば価値を見出す人もいる。
しかし、当人にとって価値がない仕事をすることほど不健全なことはないだろう。
仕事をするからには、価値がある仕事でなければおかしい。

ただ単に収入源のために働く人が増え過ぎていることも、
今の世の中をおかしくしている大きな原因になっているように思う。

もちろん、そのようにして生きる人たちを責めているのではありません。
そのようにしなければ生きていけない人たちを増やしてしまった社会全体の責任
だと考えております。私は。