「座右の銘」の変遷
休職する前まで、けっこう座右の銘として好きだったのが
「人事を尽くして天命を待つ」
というもの。
やれるだけのことをしたら、あとは世界の流れに身を任せよう、
というほどの意味合いで理解している。
最近、
「果報は寝て待て」
というのも同じような意味だ、と聞いた。
ここで言う果報とは因果応報のことで、
必ずしもよいことだけを意味しているのではないのだとか。
少しニュアンスが違うのは、
前者には「これだけやったのだから、これで駄目なら仕方ない」という覚悟が含まれているのに対し、
後者には「努力してもしなくても、それと直接的には関係なく巡ってくる因果応報を甘んじて受け入れましょう」という素朴な諦観が含まれているところ。
そうだとしたら、
変に肩に力が入った「人事を尽くして天命を待つ」よりも、
程よく脱力している「果報は寝て待て」のほうが自然体だと思った。
そういえば、子どもの頃に気に入っていた座右の銘は
「人生万事塞翁が馬」
だった。
社会に出て働き始めてから(働けることが楽しかったからというのもあるけど)少し力み過ぎてしまっていたのかもしれない。
有意性の検定結果が示されていないナンセンスな統計データが横行している。
相互的な“助け合い”の関係性が大事
心配して助けようとするのは
見守ることができないからであり、
その点で(解釈次第では)暗に相手のことを認めていないことを意味している。
もし仮に、相手から助けを求められているような場合でも、
この状況が変わるわけではない。
真に健全な関係性は、一方的でない相互的な“助け合い”から生まれる。
逆に言えば、どのような関係性であっても、
そこになんらかの相互的な“助け合い”が生じている(しっかりと見出されている)限りにおいて
少なくとも当人同士の間では健全な関係性が構築されていることになり得る。
孤独の泉源
どんな時に孤独を感じるかは、人それぞれだと思う。
共通しているのは、
帰属性の喪失が孤独感の泉源である、ということ。
死別による家族の喪失。
他の誰でもない“私”であることに気付いた時。
集団や仲間から干された時。
国を追われた時。
家出をした時。
退職した時。
お祭りのあと。
・・・しかし、
「みんな地球の一員であり広い意味での家族なのだ」
と気付いて、それを実感できるようになった時には、どんな時でも孤独ではなくなる。
もちろん、そう実感できるようになるためには
それなりの実体験を伴う必要があって、自力ではどうすることもできない場合もある。
このことを知っているだけでは何も変わらないし、変えられないのだけれども
ひとつの道筋、闇の中に光を見出す上での指針になり得るはずだ、とも思っている。
リミッターがないから、エンジンが燃えていても走り続けてしまう
境界
まだ食欲があまり戻らない
10月半ばから大きく調子を崩していた。
ここまで調子を崩したのは、たぶん2〜3年ぶり。
今年は公私共に大きなイベントが重なり、
まだ本調子でないにも関わらず、動き過ぎてしまった。
新しい治療方法が効いて(自分に合っていて)自信が付いてきていた部分もあった。
それはそれで良かったけど、やはり動き過ぎて裏目に出た。
自分が崩れると、毎回のことながら人間関係も大きく崩れる。
そのことをいつも気に病んでいたら正気でいられないし、
自己嫌悪になることのほうが周囲に迷惑をかける、ということを過去に痛いほど思い知らされてきたこともあり、
そこで崩れた人間関係は、そこまでの関係だったのだと割り切ることにしてきた。
だから、今回もそうしている。
かけがえのない実子と死別し、その悲しみを抱えたまま生涯を送る人だっているのだ。
どんなに大切な人間関係でも断たれてしまう時は断たれてしまう。
だからといって、その関係性が消滅する訳ではない。
記憶に深く刻まれ、その後の人生の礎になっていく。
良くも悪くも、そういうものだろう。