考えすぎ -6ページ目

幸せの正体

幸せとは、
「自分と世界全体の境界がなくなっていくプロセス」を指して言うのかも。
「自分と世界全体の境界がなくなった状態」のことではなくて、そこに収束していくプロセス。

「座右の銘」の変遷

休職する前まで、けっこう座右の銘として好きだったのが
「人事を尽くして天命を待つ」
というもの。
やれるだけのことをしたら、あとは世界の流れに身を任せよう、

というほどの意味合いで理解している。

最近、
「果報は寝て待て」
というのも同じような意味だ、と聞いた。
ここで言う果報とは因果応報のことで、

必ずしもよいことだけを意味しているのではないのだとか。

少しニュアンスが違うのは、
前者には「これだけやったのだから、これで駄目なら仕方ない」という覚悟が含まれているのに対し、
後者には「努力してもしなくても、それと直接的には関係なく巡ってくる因果応報を甘んじて受け入れましょう」という素朴な諦観が含まれているところ。

そうだとしたら、
変に肩に力が入った「人事を尽くして天命を待つ」よりも、
程よく脱力している「果報は寝て待て」のほうが自然体だと思った。

そういえば、子どもの頃に気に入っていた座右の銘は
「人生万事塞翁が馬」
だった。
社会に出て働き始めてから(働けることが楽しかったからというのもあるけど)少し力み過ぎてしまっていたのかもしれない。

有意性の検定結果が示されていないナンセンスな統計データが横行している。

統計は有用だけど、決して万能ではない。
基本的には、例外的マイノリティを無視することによって確率統計は実用化されている。

しかし実際には、天文学的に希少な確率と言われるような例外的マイノリティの事象が積み重なって生じ、今もその奇跡を積み増し続けている惑星が
他ならないこの地球である。
統計は、日常レベルでは有用であっても、
大きく歴史が動くような事態を前にした時、少なくとも予測して予防するための役には立たない。
そもそも、数学自体が万能ではない。
このことは数学者ゲーデルによって既に“数学的に”証明されてしまっているのだ(ゲーデルの不完全性定理)。

統計データを活用する時には、必ずその解析の有意性を示す必要がある。
有意性の検定が為されていない統計データ(ランキング等)を作成したところで、
そこには何の信憑性も担保されない。
「有意水準5%」
「有意水準1%」
といった有意差検定の結果とセットになって、
初めてその統計データの「確からしさ」が明白になるし、具体的な意味を持つ。

そのことが理解されないまま、見た目のいい数字だけが一人歩きしている。
まだ人類社会は、統計を実質的に有効に扱えるほど文化的に成熟していないのだろう。
その証拠に、
巷で見かける「統計データっぽく見せられている図表」のほとんどに、
有意性についての記述が付記されていないし、付記される気配すらない。
もし仮に穿った見方をしたとしてビジネス本位の目的だとしても、
せめて嘘でもいいから「有意水準5%」などと記載して欲しいと思ってしまうのだが
実際には、そうすると虚偽記載がバレてしまい本当に罰せられてしまうから誰もしないのだろう。

こうした明白な詐欺まがいの慣習が横行しているのが
現代社会の実態なのだ。
AI技術が著しく発展し続けている今もなお、
印象操作による社会心理のコントロールが実務的に行われているし、
それに基づいて実際の経済社会が動いてしまっている。

批判しても仕方ない。それが事実なのだから。
そのような社会にあって、どのように生きていくかを逐一判断していくほかない。

相互的な“助け合い”の関係性が大事

心配して助けようとするのは

見守ることができないからであり、

その点で(解釈次第では)暗に相手のことを認めていないことを意味している。


もし仮に、相手から助けを求められているような場合でも、

この状況が変わるわけではない。


真に健全な関係性は、一方的でない相互的な“助け合い”から生まれる。

逆に言えば、どのような関係性であっても、

そこになんらかの相互的な“助け合い”が生じている(しっかりと見出されている)限りにおいて

少なくとも当人同士の間では健全な関係性が構築されていることになり得る。

孤独の泉源

どんな時に孤独を感じるかは、人それぞれだと思う。

共通しているのは、

帰属性の喪失が孤独感の泉源である、ということ。


死別による家族の喪失。

他の誰でもない“私”であることに気付いた時。

集団や仲間から干された時。

国を追われた時。

家出をした時。

退職した時。

お祭りのあと。


・・・しかし、

「みんな地球の一員であり広い意味での家族なのだ」

と気付いて、それを実感できるようになった時には、どんな時でも孤独ではなくなる。

もちろん、そう実感できるようになるためには

それなりの実体験を伴う必要があって、自力ではどうすることもできない場合もある。

このことを知っているだけでは何も変わらないし、変えられないのだけれども

ひとつの道筋、闇の中に光を見出す上での指針になり得るはずだ、とも思っている。

リミッターがないから、エンジンが燃えていても走り続けてしまう

書き留めておいたメモが出てきた。
ある人から指摘されたこと。
私が自分でいろいろ喩え話を出して説明するより、
前の主治医から診察中に言われたこの説明のほうが、世間の人たちにとっては端的でわかりやすいから、
と勧められたのでここに書いておく。

「あなたには(車で喩えると)リミッターがないから、
仮にエンジンが火を噴いても気付かないまま、走れる間は気持ちよくアクセルを踏み続けてしまい、
気がついた時には猛スピードで走り続けた結果エンジンが燃えて動けなくなってしまう。
いったん燃え尽きると戻すのに大変な時間がかかる。
あなたは気付けないから、それを繰り返している。」

疲れにも気付けないし(最近は訓練の効果もあってか以前よりは早めに気付けるようになった)、
尿意にもリアルタイムでは気付けないから、いつもトイレに駆け込んでいる。
過集中してしまうのもリミッターがないことと表裏一体のものだと思う。
すべてにおいて、こんな感じで私は生きています。

不快感を持たれる向きもあるかと思いますが、
マイノリティだからこそ積極的に自ら(恥を晒してでも)支障のない範囲内で幅広い皆様にお伝えするようにしています。
第一には自分自身のためであり、
もし副産物的に似たような他の誰かの内心を代弁するような形になって貢献できていればうれしい、とも思いつつ、
毎回、私なりに言葉を選びながら発信するようにしています。

最近では(プライベートな内容が多いこともあって)Facebook上での発信が多くなっていますが。
あまりにも生々しく内心を吐露するような内容は、ブログには書かないようにしています。

境界

「感性と理性の境界を知りたい」
そう思いながら、子どもの頃から人工生命に興味を持ってきた。

小学校で、図工の先生から授業でフラクタル図形のことを教わり(変わった先生だった)、
中学では数学の先生から黄金比やフィボナッチ数列のことを習った(変わった先生だった)。
高校2年と3年の二年間お世話になった担任の先生も変わっていて、生きる上での基本的な姿勢とか考えかたを熱血ながら独特な振る舞いかたで示してくれた。
大学では、理工学部で情報工学を学び、専門課程では自然言語処理や遺伝的アルゴリズム等について数値計算や認知心理学の知識と並行して教わった。
一般教養でも人間工学や臨床心理学、科学哲学や西洋哲学史等を平たく学んだ。

大学1〜2年の時に大変お世話になった数学教授(当時、微分積分を担当されていた)から、講義中に
「数学は言葉です」
「どんなに正しくても、美しくなければ定理とは呼ばれません」
と言われたことが当時の私にとっては衝撃的で、とても腑に落ちた。

デカルトが関数をx-y座標系に置き換えて示したように
数学者は物事の置き換えが可能かどうかを考えるのが好きだ。
そういう意味では、私も中途半端ながら数学者寄りの人間なのだと思う。

「感性と理性の境界を知りたい」
という命題は、
「自然と作為の境界を知りたい」
という命題に置き換えることができるのではないか。
最近そんなことを考えている。

どちらがいい、とか、どちらのほうが大事、とかではなくて、
単純に、純粋に、その境界を知りたい。
「どちらが大事か」と言われれば、
たぶん、私にとってはどちらも大事なのだ。

まだ食欲があまり戻らない

10月半ばから大きく調子を崩していた。

ここまで調子を崩したのは、たぶん2〜3年ぶり。

今年は公私共に大きなイベントが重なり、

まだ本調子でないにも関わらず、動き過ぎてしまった。


新しい治療方法が効いて(自分に合っていて)自信が付いてきていた部分もあった。

それはそれで良かったけど、やはり動き過ぎて裏目に出た。

自分が崩れると、毎回のことながら人間関係も大きく崩れる。

そのことをいつも気に病んでいたら正気でいられないし、

自己嫌悪になることのほうが周囲に迷惑をかける、ということを過去に痛いほど思い知らされてきたこともあり、

そこで崩れた人間関係は、そこまでの関係だったのだと割り切ることにしてきた。

だから、今回もそうしている。


かけがえのない実子と死別し、その悲しみを抱えたまま生涯を送る人だっているのだ。

どんなに大切な人間関係でも断たれてしまう時は断たれてしまう。

だからといって、その関係性が消滅する訳ではない。

記憶に深く刻まれ、その後の人生の礎になっていく。

良くも悪くも、そういうものだろう。

”「わからない」に対して”

そうだね。

ていねいに生きることができるようになってきたと思う。


気付いてくれて、ありがとう。


自死は殺人行為

「自死(自殺)」は、違法性を問われない殺人行為である。
もう一つの合法的な殺人行為が「死刑(処刑)」である。

いずれにしても、その死の責任の所在は容易く定まらない。
死にゆく本人の自己責任であるとは限らず、
何らかの影響が重なって、死に至る状況に追い込まれてしまう場合(例えばイジメ等)もあるから。