考えすぎ -2ページ目

私たちが生きている世界は本当に3次元の世界なのだろうか?

3次元の世界を、2次元の世界に投影できる。
およそ現代に至るまでのあらゆるグラフィックス技術は、
3次元の世界を2次元の世界に投影し、系統立てて管理する方法論を構築し、実現してきた。

数学的に、4次元の世界を3次元の世界に投影できることも、また当然に知られている。
実際そのような3次元モデルも製作されている。
そして、実際の世界は時空が歪んでいることも知られている。
時空間が歪むということは、とりもなおさず4次元以上の次元の世界が実在していることを意味している。

これまで3次元の世界の枠組みだけで捉えてきた事柄を、
4次元、あるいは、それよりも高次元の枠組みで再定義し直せば、
これまで頭打ちとなっていた多くの事柄に膨大な余白が新たに見出されるだけでなく、
別々に処理されていた事柄が統合されることになり、諸概念がよりシンプルになる。

この時、従来の世界で問題視されていた事柄の多くは、
そもそも問題視する必要もないくらい瑣末な事柄に変質してしまうことだろう。

本来、より高次元の世界で解決すべき問題を、
強引に3次元の世界の枠組みの範囲内で処理しようとするから無理が生じているのではないのか。
ちょうど、複素数を用いずに三次方程式を解こうとすると「解なし」が出てしまうのと同じように。

私たちが住んでいる世界が、必ず3次元でなければならない理由が
そもそもどこにあるのだろう?
脳が自身を騙し、感覚的に整合性が取れやすいように合理化して“見せて”いるのなら、
なおさら慎重に疑ったほうがいいと思う。
無条件に「私たちは3次元の世界に生きている」と言い切れる根拠など、実はどこにもないのだから。

語らない理由

一度、分解したものは再び集めても
二度と元通りにならない。
分解したものを調べても、元通りのものを完全に知ることはできない。

だからこそ、大切にしていることほど人は語らない。
なぜなら、
解説して詳しく語ることによって、大切にしていたその事柄は分解されてしまうから。
分解されてしまったら、記憶も含めて元通りにならないから。

これは、「秘密主義である」のとは違う。
表面上は同じに見えることが多いし、「隠している」と誹りを受ける場面も少なくないが、
それでもなお胸に秘めておくのは、
ひとえに、それだけ大切にしている証拠でもある。

ただし、元通りのままにしておくことが常に最善であるとは限らない。
破壊と創造は、同じ事柄の別の側面に過ぎない。
一度、分解したものは再び集めても
二度と元通りにならないが、
また別のものを生み出すことができる。

大切にしているからこそ、時には
思い切って手放してみることも必要かもしれない。

個々のものと、その集まり

ある特定のもの(または特定の属性のもの)を集めていくと、
その集まりは、もとの個々のものとは本質的に異なるものとして認識されるようになる。

この現象、とても興味深いと思う。
どこから認識が変わるのだろうか、、、?

メタモルフォーゼの妙。

一個人が人類全体の未来を背負わなければならない謂れはない。

個の多様性を踏まえて冷静に考えてみれば、
高齢のかたに対して
「未来の子どもたちのことを考えて欲しい」
と迫るのは、少し酷なことかもしれない。

死期が近付けば、自身の終活を優先するのは自然な流れ。
当然ながら、一個人が人類全体の未来を背負わなければならない謂れもない。
その人が、表立って子どもの権利を無碍にするような言動をしているのなら批難されても仕方ない、
と思うが、そうでないのなら、
高齢者は高齢者で自身の人生を総括したいのが普通の人情だろう、とも思う。

世代間のギャップが生まれる源泉は、そもそも、世代間のギャップという意識そのもの
なのかもしれない。
「世代間のギャップ」という大枠に落とし込んで思考停止するよりも、
無理のない範囲内で、自分にできることをしていくことのほうが健全で確実な歩みだ、
と最近、気が付いた。

問題をなくす方法

問題をなくすためには何をしてもいいのだとしたら、
もっともシンプルで確実な方法は、
その問題が問題として少しも認識されなくなるようにすることだ。
かつて、日本の戦国時代を一気に収束に向かわせた織田信長は、
まさに「問題をなくすため」に、「問題を認識する主体」であるところの人々を徹底的に抹殺していく方法により、日本統一の道筋を切り拓いた。

確かに最適解だったかもしれない。
しかし、そのプロセスは決して褒められたものではない(凄まじい覚悟や信念は響いてくるものの)。
本当に大事なのは、結果よりもプロセスだ、と思う。

・・・こんな生温いことを言えるのも、言論の自由が担保されている平和な世の中だからこそだ、
と言われてしまえばそれまでだが、
しかし、言っていることに誤りはないつもりだ。

そもそも、
戦国時代には、言いたくても言えないことばかりだった。
現代は、そうじゃない。だから言う。ごく自然なことだ。

むしろ、現代に生きていながら、
戦国時代に生きた人たちと比較して云々することのほうが滑稽だと思う。
歴史に学び、故人に習うことと、
それをそのままなぞることは違う。
大いに参考にしながらも、現代社会に合った方法を考えていく必要があるのだと思う。

言葉の機能、「記号化」

言葉の機能は、まず第一に「記号化」だろう。

言葉の成り立ちや、始まりがどのようなものだったのかまでは全然わからないが、
少なくとも現代人が言葉を使う場面において、
そこで求められる機能として最重要視されているのは、
間違いなく「記号化」だと思う。

言葉を活用すれば、短く伝えられる。
例えば、
「誰もが当然に納得していること」を「正しい」と言う。
いったん、そう決めてしまえば、
いちいち毎回のように全員に確認しなくても、仮定として「全員が納得しているはず」という意味合いで単純に「正しい」と表現することができる。

そのほうが議論も深まるし、テンポもよくなる。
本当に「正しい」のかどうかは、いったん表現された情報を共有した上で
追い追い精査していけば済むわけだから。

「言葉」の使いかた

言葉という外部記憶の力を借りながら
人類は、遺伝子の継承を上回る驚異的な速さで進化を遂げてきた。
この事実は、ちょうどChat GPTが単なる語彙モンスターでありながら、
現に思考する私たちと対話の相手の役割を(しばしば珍妙になる場面が散見されるとはいえ)果たしてくれている今の社会現象と、
本質的には同じことを意味しているのかもしれない。

私たちは日ごろ、言葉を使って考えるが、
「言葉を知っている」ということだけで
わかったつもりになっている場合が非常に多い。
そして、ほとんどの場合、
「その言葉を知っているだけ」なのか、
「その言葉の意味や内容を本当に知っている」のかを判別することは、
本人にも客観的にも非常に難しい。
それが難しいからこそ、高度にIT化が進展した今でもなお
重要な意思決定の際には“充分な議論が必要”とされているのだ。

充分に議論しなければ、
その言葉で表現されている事柄について互いに認識を共有し、同意しているかどうかが見えてこない、
ということだ。
しかし、日常生活の範囲内では、特に議論しなくても、
単に言葉を知っているだけで事足りる場面も多い。
一人一人が専門的・学問的内容の精細に至るまで知り尽くしていなくても、
その概念に割り当てられた「言葉」さえ覚えれば、記号的に運用できる。
言葉の持つこの性質こそ、
体得していない原理や価値観を、体得しないまま運用することを人類に可能にしたのだ。

そう考えると、日ごろの私たちの「言葉」の使いかたと、
Chat GPTの「言葉」の使いかたの間に、
そもそも本質的な違いがあるのだろうか、という素朴な疑問が湧く。
この疑問の先には、
「魂は、どのようにして生じるのか」とか
「私という認識は、どのようにして芽生えるのか」といった疑問が待っている。

「コミュニティ」の振る舞い

「コミュニティ」は、「幸せ」と同じで、
意識した瞬間に、どこか不自然になってしまうのだと思う。

「コミュニティ」にしても、「幸せ」にしても、
それが自然に生じている時、人は、そのことを意識しない。
逆に、意識すればするほど不自然になっていく。

「専用のアイテム」という付加価値

「専用のアイテム」は、可能な限り避けたほうがいい。

それよりも、自分の(能力や知識などの)汎用性を高め、手持ちの道具を使い回していけるようにしたい。


資本主義社会の経済において、「専用のアイテム」は、付加価値という名の盲点だ。

「何も傷付けたくない」

そう思い続ける限り、

その思いがあなた自身を傷付けてしまう。


何も傷付けずに生きることはできない。

何も傷付けずに死ぬことすらできない。

進むことも戻ることも立ち尽くすこともできない状況。

それは、そもそもの認識を間違えているから起こること。


傷付け合っていくしかない。

まず、そのことを受け容れよう。

理不尽だけど、これは事実だから仕方ないのだ。


痛みを感じるのは生きている証拠。

生きている実感のある痛みは健康な痛み。

生きているのか死んでいるのかわからないような痛みは病的な痛み。


痛みがすべて悪なのではない。

病的な痛みを余分に生まないようにしよう。

健康な痛みなら恐れず引き受けよう。