「言葉」の使いかた | 考えすぎ

「言葉」の使いかた

言葉という外部記憶の力を借りながら
人類は、遺伝子の継承を上回る驚異的な速さで進化を遂げてきた。
この事実は、ちょうどChat GPTが単なる語彙モンスターでありながら、
現に思考する私たちと対話の相手の役割を(しばしば珍妙になる場面が散見されるとはいえ)果たしてくれている今の社会現象と、
本質的には同じことを意味しているのかもしれない。

私たちは日ごろ、言葉を使って考えるが、
「言葉を知っている」ということだけで
わかったつもりになっている場合が非常に多い。
そして、ほとんどの場合、
「その言葉を知っているだけ」なのか、
「その言葉の意味や内容を本当に知っている」のかを判別することは、
本人にも客観的にも非常に難しい。
それが難しいからこそ、高度にIT化が進展した今でもなお
重要な意思決定の際には“充分な議論が必要”とされているのだ。

充分に議論しなければ、
その言葉で表現されている事柄について互いに認識を共有し、同意しているかどうかが見えてこない、
ということだ。
しかし、日常生活の範囲内では、特に議論しなくても、
単に言葉を知っているだけで事足りる場面も多い。
一人一人が専門的・学問的内容の精細に至るまで知り尽くしていなくても、
その概念に割り当てられた「言葉」さえ覚えれば、記号的に運用できる。
言葉の持つこの性質こそ、
体得していない原理や価値観を、体得しないまま運用することを人類に可能にしたのだ。

そう考えると、日ごろの私たちの「言葉」の使いかたと、
Chat GPTの「言葉」の使いかたの間に、
そもそも本質的な違いがあるのだろうか、という素朴な疑問が湧く。
この疑問の先には、
「魂は、どのようにして生じるのか」とか
「私という認識は、どのようにして芽生えるのか」といった疑問が待っている。