考えすぎ -251ページ目

今から始まる

主人公の視点で書かれた小説は数多いが、
そういう小説も、「主人公が生まれた瞬間」から物語が始まっていることは滅多にない。
というか、僕の記憶の限りでは、そのような小説を僕は知らない。

小説が言葉で表現されるものである以上、
これは原理的に当然のことなのかもしれない。
人は誰しも、生まれた瞬間から言葉を使いこなせるわけではないのだから。



・・・という説明が、僕個人としては、最も腑に落ちる。
けど、ここで言いたいのは、そういうことじゃない。
むしろ、
「始まりは必ずしも『生まれた瞬間』である必要はないのではないか」
ということを言いたい。

主人公の視点で書かれた小説を読むとき、
まず、主人公が現在どういう状況にあって、過去にどういう経験をし、これからどうしようとしているのか
を、読む人間(というか僕)は知ろうとする。
意識的にわざわざ知ろうとするわけではないけれども、
読み進めるうちに、なんとなく、そういう枠組みを自分の中で組み立てながら読んでいく。

そして、それが面白い小説で、のめり込むようになってくると、
まるで自分がその主人公であるかのような気持ちになりながら(つまり、主人公の枠組みを自分のものとして引き受けながら)、読んでいくようになる。

この時って、緊張したりしながらも、結構わくわくしている。
現実の自分の状況に比べれば遥かに、切迫していたり、困難が大きかったり、絶望的であったりしているのにも関わらず。

「そりゃ、現実じゃないから心に余裕を持って読めてるだけでしょ」
・・・確かに、そうだと思う。
でも、それだけじゃない気がする。



現実の僕。つまり、今の僕。
例えば、200年後の人が今の僕になり代われたら、かなり面白いんじゃないだろうか。
21世紀初めの日本に住んでいた、これから社会に出る瀬戸際にいる青年。
今で言えば、江戸時代の庶民になった想像をしているような感じ、かもしれない。
200年後の人にとって、今の僕は。

そう考えると、今の僕自身も、
なんだか実はとても趣のある生き方をしているような気がしてくる。


ブログっていう、コンピュータネットワーク上での発信手段なんかを使って、
一生懸命自分の気持ちを伝えようとしてたんだよ、あの頃の人は。
・・・っていう、その「あの頃」の人の一人である、この僕。



異国情緒あふれる主人公の物語を、今、ここから始めたっていい。
その物語の名は、現実。

やっぱり駄目だな・・・

現実を生きるんだ、
と言ったそばから、気づいたらもう、
「自分はわかってない」
なんて思っちゃってた。

ある意味、反面教師を目指す覚悟で開き直って、
考え続けるしかないのかな。
やっぱり。

わかってないから言えるんだ。そんなこと。

3月25日の『ダイモニオンの声』 です。


人生とか、命とか。
生きるとか、死ぬとか。
言葉とか、幸せとか現実とか。

僕は、いろいろ言ってるけど、
いろいろ言うのは、実は何もわかってないからなんだろうな。

余命3ヶ月と宣告された人にとって、
生きるとか死ぬとかは、すごくリアルなはずだ。
瞬間的に、走馬燈のようにわかってしまうんだと思う。
そして、僕のように机上の空論を弄んでいるのとは違って、
その思いは、紛れもない現実として常に自分の心を占めるのだろう。

胸が詰まるほどどうしても伝えたいことがあれば、
その刹那、言葉がどんなものかが、はっきりわかるだろうし、
幸せとか現実とかも、
本当にわかったと言えるのは、そういう瞬間的なものだ。

僕は今、実は大事なことをまるでわかってない。



・・・そう実感して、今日のダイモニオンの声。

わかってないから言えるんだ。そんなこと。

現実を生きる

もう、充分だろう。
自分の内面を探るのは。

いつか、自分の内面を再び見つめる必要が出てくるかもしれないが、
その時にはちゃんと戻って来られるよう、準備した。
何年経ってからでも、もう一度見つめ直すことができるように、道すじを残しておいた。

だから、もう充分だろう。
これからは、現実と戦っていこう。自分なりのやり方で。

「みんな」って誰?

つい、
「みんな、やってるよ」
と言ってしまうことがある。
それを根拠に、自分の行動を正当化しようとしたり、
相手にその行動を促そうとしたりする。

でも、僕の場合、その「みんな」は、
よく考えてみると2、3人。多くて10人くらい。
あとは、誰かが「みんな」と言ったことに影響されて、自分でもそれを「みんな」だと思い込んでいる場合がほとんどだと思う。

世界中の人と実際に話したことなんてないのに、
「みんな」
と言ってしまう。どうしてだろう。



きっと、基準がなくてはいられないからだ。


「みんな」という言葉と「一般人」という言葉は似ている。
でも、僕は今まで、
「この人こそが一般人だ!」
という人には出会ったことがない。
にも関わらず、「一般人」というイメージを僕は持っているし、
「僕は一般人とは違う」ということを常日頃、感じている。
その違いの部分で苦しんだり、その違いにこそ自分の生きる道を見出そうとしたりもしている。

よく考えてみると、これは奇妙なことだ。
一人一人みな違う、ということを思い出せば、
「僕のこの意見は世間では受け入れられない」
なんて言うのは、ただの決め付けでしかない。
たとえ今までは受け入れられなかったとしても、次の一人には受け入れられるかもしれないからだ。

ただ、毎回そうやって新鮮に物事を捉え続けていたら、
大変なエネルギーを常に消耗し続けることになる。
それではとてもまともには生きていけないから、自分の今までの経験のなかで、ある程度の基準を設定して、それを根拠に考え、行動し、生きていくようになるのだろう。

そうなることが、いわゆる学習ということなのかもしれない。

何が自己嫌悪だ。うぬぼれるな。

3月24日の『ダイモニオンの声』 です。


自己嫌悪がいつまでも続くのは、ある意味で、揺るぎない自信の表れだ。
「自分のこういうところが悪いし、嫌いだ」という判断や価値観そのものには絶対の自信を持っている、ということだからだ。

そもそも、自分の良し悪しを決めるのは、自分なのか。
冷静に考えると、それは、むしろ他人のような気がする。
自分の良し悪しを自分で決めようとしても、
まさにそうしている自分を見て最終的に評価するのは、やはり他人。
自分で自分を裁こうとすることなど、単なるうぬぼれでしかない。


・・・そう実感して、今日のダイモニオンの声。

何が自己嫌悪だ。うぬぼれるな。

ミイラ取りがミイラに・・・

「人は、自分自身の中にいる怪物と戦うとき、いつの間にか貴方が怪物になっています。」

これは、
『呟き尾形の雑記帳』
というブログの、
『批判していることを、自分がしていること、ありませんか?』
という記事に書かれていた一文です。

実は、これ、
僕が一番恐れていることの一つです。

つまり、相手を批難している時、
そうやって批難している行為そのものが、実は今まさに批難の対象としていることそのものだった。
・・・そういう状況です。

人間は矛盾のるつぼだと思うし、
特に自分は矛盾だらけだから、そういう状況はこれからもきっとあって、避けられないものだろうとは思う。
だから、そのこと自体は仕方ないのかもしれないけど、
そのことに自分で気づかないのがとても怖い。

そのせいで、いつまでも、
「本当は自分は気づいてないんじゃないか」
と考えてばかりいます。
その結果、石橋を叩いて渡るどころか、
石橋を壊れるまで叩き続けてしまうことも少なくありません。

でも、仮にそうなってしまっても、
自分が戦おうとしている怪物に自分がなってしまい、しかもそのことに気づかないでいるよりは、うんとまし。
そういう思いに駆られて、いつも、「怪物になってるんじゃないか」という疑いの眼差しを自分に向けます。
だから、いつまでもなかなか自信が持てないんだと思います。

自信を持った瞬間に、自分が怪物になってしまうような気がして。

新しい骨みつけた

あくびをして、伸びをしつつ体を反らせたら、
今まで鳴ったことがなかった部分の骨が鳴った。

妙に気持ちよかった。

骨を鳴らすと、
今までたまっていたものが抜けた感じがする、
あの感じは、一体、何だろう。
何かが実際に抜けていってるのかな。

どなたか、人体メカニズムに詳しい方がいたら、教えてください。

クリックで救える命がある。

『クリックで救える命がある。』 というサイトでは、

インターネットから、1日1円の募金ができます。
寄付金の送り先は、各種NPO団体です。
ただし、実際に寄付をするのは「コスモ石油」や「味の素」などのスポンサー企業です。
ここで募金する人が支払うのは、広告を見る少しの時間と労力です。
かかる時間は、募金1回につき数秒程度です。



このサイトを、自分のサイト『ダムの決壊』 のリンクページでも紹介しています。
でも、それはかなり不純な動機からでした。

僕がこのサイトを知った頃、僕は「役に立たない」病になっていました。
「役に立たない」病というのは僕の造語ですが、つまり、
自分は何の役にも立たない、という思考の悪循環にはまっている状態です。
そう考えている間は、まさに何の役にも立っていないわけで(実際にはそうとも言い切れなかったみたいですが)、悪循環は加速する一方でした。

そういう状況のなかで、このサイトの存在を知りました。
こんな自分でも、はっきりと目に見える形ですぐに役に立てることがあると知って、すごく救われた気持ちになったのをよく覚えています。
・・・というわけで、結局、自分のことしか考えていなかったんです。

リンクページで紹介しているのも、自分と似たような状況にある誰かがたまたま自分のサイトに来ることもあるかもしれない、と考えてのことです。
つまり、クリック募金の主旨からは遠くかけ離れた、不純な動機でした。
今、初めて白状するんですが。

個の時代に生きる個らよ

僕の生き方は、とても個人主義的だと思う。
少なくとも、心のうえでは。

自分で考えなければ納得しない。
もちろん、自分の考えなど及びもつかないことが山ほどあるけど、
そう思うようになったのも、一度、自分で考えてみて見事に挫折したからだ。
だから結局、自分で考えてみなければ納得しなかった、という点では同じだった。

自分で何もかもわかろうとすること自体がおかしい、とも思う。
でも、やっぱりそう思うのは自分であって、いつも偉そうに物事を判断しているのは、どこまで行っても自分なのだ。

だから、死が怖くなる。
自分が存在しなくなることと、すべてが存在しなくなることが、同じことになってしまう。
現代のように個が肥大化した時代に生まれていなければ、
いくら僕のように頭でっかちな人間でも、こんな風に「死が怖い」と思うことはなかったかもしれない。

かつて、これほど個が肥大化する以前、つまり、人間が自然の大きな流れのごく一部だった頃、
主人公は自然であり、海の神、山の神だった。
自分は主人公ではないから、
自分の人生が自己完結する必要はなかった。
ある時、突然の事故で自分が死ぬことになっても、そのことは何ら理不尽なことではなかった。
悲しいことや、つらいことではあったとしても。

だから、自分が生きている間に謎の答えを見つける必要もなかったし、
自分が生きている意味を自覚しなければならないということもなかった。

そう考えてみると、個が肥大化した現代の都市社会のほうが異常のように思えてくる。

そもそも現代には、「一代ですべてを築き上げた達人」が多すぎる。
しかし、一代ですべてを築き上げたものは、大抵、その一代で滅びるはずだ。
そうでなければ、今後のあらゆることの原点が20世紀前後に集まってしまう。
こんな不自然なことはない。

みんな、自分のルーツを見失っているのだ。
一旦、自分のルーツから切り離されると、戻るのはきっと難しい。
ひょっとすると、不可能かもしれない。
たかだか自分の短い一生のうちに、自力で自分のルーツに戻ろうとするわけだから。
しかも、他人は協力してくれない。その人にもその人の「個」があるから。

それならいっそ、ついさっき不自然だと言ったことを行動に移すしかないのだろうか。
つまり、20世紀を新たな創世記として、
再び気の遠くなるような道のりを歩き始めるのだ。
今度は二度と、ルーツから子孫が切り離されてしまわないよう、細心の注意を払いつつ。

・・・って、書きながら何を言ってるのかわからなくなってきた。