考えすぎ -250ページ目

プライドを捨てて話したい

自分の考えのほうが優れている、とか、自分の考えを相手に納得させたい、とか。
相手に一目置かれよう、とか、自分の個性をアピールしよう、とか。

そういう余計なプライドまがいのものは捨てて、ただ、求める自分の心の衝動だけに従って、話がしたい。
いつも、誰とでも、そういうふうに話をしていられるようでありたい。
話の内容そのものに集中して話すような、そういう話し方がしたい。
そして、そういうふうに話せるような人間でありたい。

漠然とした記憶だが、かつては、自分もそういう話し方をしていたと思う。
それがいつの間にか、周囲からの評価を意識するようになり、周囲の人と自分とを秤にかけながら話をするようになってきた。
良く言えば、大人になって、世界に慣れて来たのだろう。
でも、悪く言えば、ずるくなって、本当の目的を見失いつつあるのではないか。

だから、プライドを捨てて話したい。
いつでも、そういう話し方で話すような人間でいたい。

時間は管理できない

時間の管理が、昔から苦手だった。
今でも、意識的に時間を管理することはとても難しい(し、そういうことはしないつもりでいる)。

時間を管理しようとすると、逆に時間に管理されてしまう。
心が時間に支配され、自分を見失ってしまう。
いっそのこと、すっかり見失ってしまえたら、何も苦しくはなかっただろう。
でも、幸か不幸か、たまに自分が悲鳴をあげる。
時間に追われる生活のなかで。

時間を管理しようとしたのが、そもそもの間違いだった。
あるいは僕が、「時間の管理」ということの意味を履き違えていたのかもしれない。
いずれにしても、僕の感覚では、時間は管理するものではなかった。
むしろ、自分の心や感情といったものと同じで、
「うまく付き合うもの」だった。
時間の無駄は、むしろ宝物なのだ。



そのことを僕に初めてはっきりと教えてくれたのが、
ミヒャエル・エンデという作家が書いた『モモ』という作品だった。
最初に読んだのは中学2年くらいの頃だと思う。


この作品には、「時間どろぼう」と呼ばれる灰色の男たちが登場する。
彼らは、人々に、将来のために時間を貯めましょう、と持ちかける。

「あなたの時間を節約して我々の銀行に預けてください」

「老後、たっぷりと残された時間を使って有意義な余生をお過ごしする、そのお手伝いを我々が致しますから」
・・・というように。

人々は、その言葉に焦りだし、将来のために、せっせと働くようになった。
(つまり、時間を彼らの銀行に預けるようになった)
そして、時間の無駄を徹底的になくそうとし、余計なことに割く時間を忌み嫌うようになった。
人々の表情は暗くなり、苛立って、余裕がなくなってしまった。
こうして人々は、自分の時間を失っていった・・・。



『モモ』は、
人々から奪われてしまった時間を「時間どろぼう」たちから取り返すため、
モモという小さな女の子が彼らと戦う様子が描かれたファンタジー小説です。


余談ですが、『モモ』には禅の思想が随所に見られるそうです。
実際、ミヒャエル・エンデは禅に大きな関心を寄せていたそうです。
そのことを知って以来、僕は、禅にも大きな関心を寄せています。

著者: 大島 かおり, ミヒャエル・エンデ, Michael Ende
タイトル: モモ―時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語

著者: 重松 宗育
タイトル: モモも禅を語る

寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか

高校3年の時、国語の授業で、
「寛容は不寛容に対して不寛容になるべきか」
というような題の随筆のようなものを読んだ。
誰が書いたものかは、もう覚えてない。
教科書に載っていたんだけど、その教科書はもう処分してしまった。

Googleで検索したら、出てきた。
渡辺一夫という人が書いた随筆で、正しい題名は、
「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」
だったようだ。

僕は、これを国語の授業で習った時、
「僕が抱えている問題は、まさにこれだ」と感じた。
もっとも渡辺一夫という人は、
これを、社会的な意味、あるいは倫理的な意味で述べたらしい。
でも、僕にとってこの問題は、ただひたすら自分の問題だった。

僕は、自分の考え方を他人に押し付ける人が嫌いだ。
ただし、「正しいから」という理由で押し付ける人が嫌いなのであって、
単に自分が優位に立つために押し付けている人なら、そんなに嫌いじゃない。
・・・というか、誰だって、そうやって他人と戦っているんだろうと思うから。

だから、自分の考え方を他人に押し付けている人を見ると、ムカムカする。
もし、その議論の場に自分も同席していれば、こう言わずにはいられなくなる。
「それは、あなたの視点から見れば正しいかもしれないが、違う視点だってあり得るという可能性を、どうして考えないのか?」と。
実際には、同じようなことを思いながら、もっと激しい口調になる。

でも、この時、僕は、自分の考え方を相手に押し付けている。

そう気づいたら、もう僕は、自分が言っていることが正しいとは思えなくなっていて、
自問自答の渦の中に呑み込まれていくばかり。
その自問自答は、
「人によって正しいことが違うのなら、僕が今言ってるこのことだって、当然、人によって違うことの一つに過ぎないと見るべきはずだ」
「しかし、そう見るべきはずだ、というのもまた一つの視点に過ぎないわけで・・・」
という具合に、ずるずると、深みにはまってゆく。

僕は、
「不寛容に対して不寛容になる態度は、寛容とは呼べない」
と思っているし、そう自覚している。
もちろん、不寛容な相手に対しては、こちらも不寛容な態度で臨むしかない、
という考え方は理解できる。
でも、その態度は、あくまで不寛容でしかないと思う。

だから、僕の場合、
「人によって正しいことは違う」
という考え方を誰かに伝えようとすると、
まさにそのことで自分の首が絞まってしまう。
そして今のところ、そうなるしかない、と思っている。

願わくば、自滅していくこの様をそのまま伝えたい。
今は、そう思っている段階。
もともと頑固だし、反発心もあるから、
何も伝えないまま消えてしまう気にはなれないもので。

わかろうとすること、わかること

わかろうとするのは、わからないからだ。
わからないのは、わかろうとするからだ。
わかろうとすることと、わからないことは、ほぼ同時に起こる。

わかろうとしている限り、わからない。
わかろうとすることとわかることは、相容れない。

わかろうとしないのは、わかるからだ。
わかるのは、わかろうとしないからだ。
わかろうとしないことと、わかることは、ほぼ同時に起こる。

これが僕の実感。

復学初日

新年度の書類配布とか、オリエンテーションとか。
あと、健康診断も済ませてきました。

ちゃんと学生証の更新できて良かった。
「あれ、その学生番号は見当たりませんね・・・」
って係の人に言われてるシーンが、一瞬、脳裏をよぎったけど、
普通に手渡されてしまった。

「よかった」と思った反面、
ちょっと拍子抜けした気分。
大学って、懐が深いね。

「前提」論?

『西洋哲学史』 の、『終わりに』を更新しました。

たぶん、『西洋哲学史』の大きな更新は、これで最後です。
(多少の加筆、修正は、これからも続くと思いますが)

ただ、まだまだ課題がたくさん残っているとつくづく感じました。
「前提」について書くことは、
ちょうど、見てないふりをしながら見ることに似ています。
あまり意識し過ぎると、自己矛盾の深みにはまって見えなくなってしまうのです。

実際、その自己矛盾そのものを文章にすればいいはずなんですが、
そうしていると、ただの独り言のようになってしまい、とても読める代物ではなくなってしまいます。

決して長い文章ではないので、
少しでも興味を持たれたかた、どなたでも構いません。
批判や助言、ご意見をいただけると大変嬉しいです。
(この記事を読んで興味を持たれたかたがいるかどうかも疑問ですが・・・)

自分の存在感

自分って何だろう。
何度考えてみても、ただ不思議でしかない。



Aさんの表情。Bさんの仕草。
そこから、AさんやBさんの感情を読み取り、
彼らの人間らしさを感じ取る。

Aさんが、Aさんらしい表情をしていると、
その場が「Aさんがいる雰囲気」になる。
Bさんが、Bさんらしい仕草をしていても、
その場は「Bさんがいる雰囲気」になる。
それが、AさんやBさんの存在感だと思う。


でも、「自分」の場合。
鏡の中の自分からは、感情を読み取ることはできない。
むしろ無言のままこちらを見つめ返してくる「そいつ」は不気味ですらある。
「そいつ」をいくら観察しても、「そいつ」からは人間らしさが感じられない。
(・・・と思うのは僕だけだろうか?)

そもそも、「自分」の場合、存在感の意味が違うのだ。
同じ言葉を使ってはいるけど、言ってる意味がまるで違う。
「自分」の存在感は、「自分」以外のものには決して当てはまらない。


自分の表情や自分の仕草から、自分の感情を読み取るようなことは、普通、あり得ない。
わざわざ表情や仕草から読み取ろうとする以前に、自ずとわかってしまうからだ(何しろ自分の感情なのだから)。
だから、自分らしい表情や仕草が、実はよくわからない。
自分らしさを一番わかっていないのは、ほかでもない自分自身なのだ。
そのせいで、自分の存在感を見失ってしまう。・・・そんな気がする。

自分が何なのか、一番わかってないのは自分なのかもしれない。
他人には、案外わかっているのだ。

車輪の唄

BUMP OF CHICKEN のアルバム『ユグドラシル』に収録されている、
『車輪の唄』が頭の中で回ってる。


実は昨日、移動中、これをずっと聴いていたら、
何度目かで突然、詞の意味がわかった。
情景がありありと浮かんで、いい歌だと思った。

(僕の場合、)心に残る歌は、
どれも情景がありありと浮かぶ歌ばかりだ。
現実的な情景もあれば、幻想的な情景もあるが、
いずれにしても情景が目に浮かぶ歌が、心に残る。



『車輪の唄』、前から好きだったから、
詞も知ってたはずなんだけど。
でも、昨日知った時のようには、知らなかった。
一旦わかったら、曲も詞も、とてもピッタリな感じがした。
この旋律でしかあり得ない、という感じ。

BUMP OF CHICKEN って、つくづく言霊使いだと思った。


アーティスト: BUMP OF CHICKEN, 藤原基央
タイトル: ユグドラシル

写真

思い出を写真に残すことは、あまり好きじゃない。

と言っても、
「過去を振り返るのは嫌いだ」
とか、
「写真に撮られるのはごめんだ」
というような、自分のポリシーがあってそう思っているわけじゃない。

写真、という思い出の残し方に違和感がある。
写真は、思い出をある一つの姿に縛り付けてしまうもののような気がする。

どんなに心に残った場面でも、
写真に撮れば、余計なものが写り込む。
実際には心が捉えなかったものも、そこに紛れ込んでしまう。
そして後で写真を眺めた時、そこに写っている場面の残り方だけが鮮明すぎて、
実際に心が捉えたほかの場面については、記憶から薄れてしまうのだ。



写真に残すからこそ、大切な思い出をいつまでも失わずに済む。
・・・そういう捉え方もある。
でも、思い出というのはそういうものだろうか。
確かに、あいまいな思い出は、だんだん薄れていったり、姿を変えていってしまうかもしれない。
でも、それでこそ、今の自分にとって紛れもない思い出なのだ。
今の自分にとって、思い出とは必ずしも過去の真実と同じではない。
捏造され、あるいは純化された記憶。でも、今の僕にとってはリアルな記憶。
それが思い出なのだ。


だから、思い出を写真に残すことは、あまり好きじゃない。
思い出とはそういうものではないはずだ、と思うから。

すきまにいる人のため

ほとんど、自己満足かもしれない。
合理的じゃないし、実際、全然役に立ってないのかもしれない。
酷い場合、むしろ相手の心に負荷をかけてしまっているかもしれない。

それでも、役に立つかもしれない限り、
僕は、すきまにいる人のため、僕にできることをしたい。
ただし、
それが単なる自己満足に過ぎないかもしれないことを、しっかりと心に留めながら。



心の病気は、かなり薬で治るようになってきた、という。
科学的には、その通りなのだろう。
患者にとっても、治ってみれば経験的にその通りなのだろうと思う。
でも実は、
「薬を飲む気になった」という時点で、
既に(心の病気の種類にもよるが)八割方治ったも同然と言えるらしい。

らしい、どころか、まったくそうだろうと思う。
薬を飲む気になれるくらいなら、そもそも苦労はないのだ。
・・・と言うと語弊があるかもしれないが、実際、そう思う。

昨今の、
「きちんと治療すれば治るんだから、早めに治療を受けること」
と熱心に勧める風潮が、なんだかとても気に入らない。
それは「正しい」ことだろうとは思うが、正しいこととは感じられない。
なんだか、笑顔の裏に大きな威圧感が隠されているような、
そんな印象を受ける。

まるで、治療を渋っているのが悪い、とでも言っているようで。
その治療は、ひょっとしたら洗脳かもしれないのに。



洗脳、と言うと聞こえは悪いが、
世の中には「良い」洗脳と「悪い」洗脳がある。
義務教育は、「良い」洗脳と言えると思う。
(もちろん、教育にはそのほかにも重要な側面がいくつかあるだろうが)
一方、「悪い」洗脳は、例えばオウム真理教のそれだ。

「治るんだから薬を飲め」
と言うことは、
義務教育で、
「正しいことを教えてるんだから覚えろ」
と言うことに似ている。
でも、そんな簡単に正しいことがわかってたまるか、と思う。
「良い」洗脳であっても、洗脳されることには抵抗があるのが自然な心理だ。

たとえ本当に正しいことであっても、
本人が納得しなければ、それは正しいことではない。
しかも、正しいことなんて、そうやすやすとわかるものではない。
それよりも大切なのは、
簡単に結論を出して突きつけたりせずに、自分も真剣に悩むこと。
大切というか、もう、そうするしかないと思うのだ。

それが、すきまにいる僕が、
似たようなすきまにいる人のために、できることだと思っている。



・・・こう書くと、これ自体が既に、
「治してやろう」的な威圧感を帯びてしまう。
でもブログの場合、記事がだんだん流れ去っていってくれるから、
その点は、大変ありがたい。


もし、まだ威圧感が残っているとしたら、
それは、まこっちゃが自己満足にひたっているからだと思います。
憐れんでやってください。