考えすぎ -249ページ目

初めから排他的だとは何事か。

4月12日の『ダイモニオンの声』 です。



自分の世界に閉じこもるのは簡単。
だから、自分の世界と相容れないものを斥けるのも簡単。
それはつまり、自分の世界と相容れないからというだけで、相容れないものを見限ってしまう、ということだ。


世界は、自分の世界だけではない。
自分の知らない世界が、数え切れないほど様々な世界が、本当はあって、身近に転がっているのだ。
なのに、どうして決め付けてしまうのか?
どうして自分の世界のものさしで、すべてを決定しようとしてしまうのか?


自分の世界にしがみつく安心感。
実は、それがいずれ大きな不安の原因となることに、本人は気づかない。
それどころか、不安を感じると、ますます自分の世界にしがみつくようになる。
・・・むしろ、不安な今こそ、あえて自分の世界を見限るのだ!


自分の世界を見限る。自分の価値観を見限る。自分の信念を見限る。
・・・そうすると、驚くほど自由になれる。
そしてまた、手の届く範囲から少しずつ、新たに世界と価値観と信念を形づくっていくのだ。
幼児のように、すべてを新鮮に。すべてに向かって真剣に。


積み上げるだけが能じゃない。
壊してみることのほうが、実は難しい。
自分の心の壁を取り払わない限り、それ以上でも、それ以下でもない。
だから、自分の心の壁など打ち壊せ。
排他的でいることから得る安心感よりも、心の壁を取り払う不安感を。


きっと、そのほうが面白い。

不幸を失ったら終わりだ、という感覚

心の矛盾の話。



たとえ他人には気づかれていなくても自分は知っている、自分の心の卑しさ。腹黒さ。偽善ぶり。
これが、自己嫌悪の大きな原因になっている。
そして、
「自分は、なんて嫌なやつなんだろう」
と思う。
・・・こういうときは、慰められると余計、自己嫌悪が加速する。
慰めてもらえるような態度を自分がわざと取ったような気がするからだ。



調子のいい時は、あまり他人のことを振り返らない。
自分の道を、突き進んでいく。
もちろん、調子が良ければ、ちょっとした人助けまがいのことをすることもある。
でも、それは自分の調子がいいからやっていること。
つまり、たいして悩むこともなくやっていること。
だから、本当に相手の立場になって考えてやっていることではないように思う。


調子のいい状態も、いつまでも続くわけではない。
苦しくなる時が必ず来る。
一人で抱えている苦しみ、話しても理解されない苦しみ、解決できない悩み、取り返しのつかない不幸。
・・・その時にはもう、いつの間にか驕りや慢心が消え去っていて、
調子良く生きていた頃の自分を反省するようになる。

そんな時、
「自分には、このくらい痛い目を見ることが必要だったんだ」
と、つくづく思う。
このくらい痛い目を見なかったら、きっと僕は、人の心の痛みのわからない人間になっていた。
そうなるくらいなら、苦しくても大切なことを思い出せている今の自分のほうがいい。
だから、痛い目に遭って良かった。
これでまた、しばらくの間、僕は大切なことをちゃんと忘れずにいられる。
人間性を失わずに済んだのだ。
鉄の仮面をかぶった心なきロボットにならずに済んだのだ。



そう思うとほっとする。
不幸や苦しみや悩みの中にあるときの自分が、実は内心、一番、人間らしく感じられる。
・・・って、本当の不幸を知らないから、こんなことを言えるのかもしれないけど。

実感の伴わない口先だけの言葉は要らない

ここ数日このブログで書いてることは、実は中身がないんじゃないか。
・・・そんな気がしてきた。
ただ単純に他人の目を意識して書いただけの、小論文めいた自己顕示的文章。きっと。


明日から、2005年度の大学の授業が始まる。
動き始めれば、自分の中で思考が妙に循環することも少しはなくなってくるだろう。


同じ「考えすぎ」でも、また明日からは、実感を伴った「考えすぎ」を。
・・・って、そもそも、あんまり考えすぎてちゃいけないんだけど。
でも、どうしようもないから、こうして吐き出していく。
以前は溜め込んでいたけど、吐き出したほうが何かにつながっていく気がする。
きっと僕は、世界と繋がっていたいんだろう。
だからこそ、死もこんなに怖いんだろう。

かの日の君の姿を見出したくて、今日もまた君と話す

「しばらく見ないうちに、ちょっと雰囲気変わった」
・・・久しぶりに会う友人と話していると、時々、こういう風に感じる。
人間性というか、その人が持っている空気のようなものが少しばかり変わったような、そんな気持ち。
きっと、これはお互い様なんだろうけど。

・・・ちょっと、寂しい感じがする。
でも、それ以上に、何がその人の雰囲気をそう変えたのかを知りたくなる。
だからこそ、「その後どうしていたのか」だの、「最近どうしているのか」だのという話になっていく。
自分の記憶の中にある、かつてのその人。そして、今、目の前にいるその人。
その両者の間を埋めようとして。
記憶の中にあるその人こそが、自分にとっては紛れもないその人なのだから。

例えば、自分にとってその人が大切な人だとしたら、
本当に大切なのは、今まさに目の前にいるその人ではなくて、むしろ記憶の中の、忘れられないあの日のその人の姿なのだ。その姿こそが、とても輝いて眩しいその人の本当の姿なのだ。
「あの日」のその人が、その後も生きて、今、目の前にいる。だからこそ、今、目の前にいるその人のことも大切に思うのだ。あるいは、その人がその後どういう風に生きてきたかを知り、目の前にいるその人に至るまでの道のりを納得できて初めて、今、目の前にいるその人自身を改めて大切に思い直すことができるのだ。

久しぶりに会った誰かのことを、
「人が変わってしまった」
と感じて悲しくなることがある。
悲しくなるのは、(自分にとっての)その人の本当の姿が今や失われてしまった、ということを知ってしまったからだ。

病気、怪我、アル中・・・いろいろな理由で、人はリハビリをする。
中には、本人が拒んでも無理にでもリハビリさせることがある。
そんなとき、例えば家族は、その人の過去の姿をきっと思い浮かべているのだろう。
それが、その人の本当の姿だから。
それが、その人の本当の姿でなくてはならないから。

人は、どうしてこんなに記憶にすがりつきながら生きているのだろう。
どうして・・・と考えるまでもなく、きっと、そうしなければ生きていけないからなのだろう。
愛国心とか、郷土愛とか。
竹馬の友とか。
人は、子どもの頃の記憶にすがりついて生きていく。
よそから見れば、それはむしろ、記憶に縛られて生きているようにしか見えないかもしれない。
でも、本人にとっては、それが原点なのだ。

漢字検定を受けて来た

高校までに習う字が出題範囲の、漢字検定二級の試験を受けて来ました。
最後のほう時間なくなっちゃったし、駄目だったかも。
暖炉の「暖」をど忘れしたのには参りました。クイズミリオネアの回答者の苦しみがよくわかった・・・。

今は帰りの電車の中。携帯から記事書いてみました。・・・なんか、若者っぽいね。ね。

伝えたいことほど誤解されやすいのかな

言葉は生き物のようなもの。使い方を定義してから使うようなものじゃないはず。

人によって言葉の使い方は違って当然だし、誰の言葉の使い方が一番正しい、ということも決まっていない。
ただ、なぜだか共通に通じる話し方があって、人々は普段、その暗黙の了解に乗っかって会話をこなしている。
言葉の使い方は、人によって違う。にも関わらず、通じる瞬間がある。これが楽しい。特に、なかなか通じなかった話がやっと通じた時は、格別。

でも、その反対もある。
なんとかして伝えたいことを言葉で伝えようとして無理をすると、言葉の選び方が不適切になってしまい、相手に不快感を与えてしまったり、誤解されてしまったりする。
こういう時、非常につらい。
「そういうつもりで言ったわけじゃないんだ」と説明しようとしても、ただ言い訳がましいだけのような雰囲気になってしまったり、さらに相手の不快感を募らせる結果に終わってしまったり。
それに、この時にはもう、自分も精神的に少し参っているから、言葉の選び方が余計うまくなくなってしまう。
悪循環だ。

僕は、自分の考えにのめり込むと、それを一気に全部話そうとしてしまう性格があって、
その時、この失敗をよくやってしまう。
ブログの場合、特に文字だけだから、微妙なニュアンスの伝え方にも慎重にならなければいけないと思う。


そこで、ここで改めて宣言します。
僕は頭でっかちです。自覚してます。
だから、書く文章は偉そうになってしまいますが、基本的にあまり自信はないです。
その代わり、何も書かないよりはいいはず、という思い込みで書いています。
思ったことは遠慮なく書くようにしていますが、それは自分の考えを押し付けたくてやっているわけではない・・・はず、です。うーん・・・。

もし、僕の言葉の使い方とか言い回しで不愉快なところがあったら、ぜひ教えてください。

生きることも怖い

生まれてきた命は、いつか必ず死を迎える。
生まれてから死ぬまでの限られた存在、それが命なのだ。


自分の死が怖い。
自分という存在がなくなってしまうことが怖い。
でも、少なくとも今は、自分は生きている。まだ死んでいない。
だから、死ぬまでの間に、なんとかしてこの恐怖に打ち克ちたい。

きっと、自分の死なんかよりも大切なことがあって、それに気づいていないだけなんだろう。気づいていないから、死がこんなにも怖いんだ。
死から目を逸らすことはできないし、したくない。死を見つめたまま死を克服して生きていきたい。

でも、そもそも僕は生きている。
生きている、ということは、ほかの命を食べている、ということだ。
僕が生きるために、ほかの多くの命が長年に渡って死に追いやられてきたのだ。もう既に!
それに僕は、今まで、多くの人に迷惑をかけてきた。
それは、その人たちの貴重な時間を奪うことであり、その人たちの心や体に負担をかけることだったはずだ。

僕は、自分が生きているというだけで、なんと多くの命を犠牲にしてきたのだろう。
限られた存在である命に対して、既に取り返しのつかないことをしてしまった。
僕は、生きているだけで、刻一刻と多くの死や犠牲をもたらしているのだ。
生きていることが怖い。
かと言って、死はもっと怖い。死にたくない。
だから、こんな僕が多くの犠牲をもたらしつつも生き続ける意味を、見つけ出さなくてはならない。



・・・中学二年の頃、死が怖くてたまらなくて、1年間以上、カウンセリングのお世話になった。
高校に入ってからも、時々、カウンセリングルームのドアを叩いた。
その頃は、「死が怖い」という悩みよりも、「人に迷惑しかかけられないでいる自分が耐えられない」という悩みのほうが大きかった。
でも、よく考えてみたら、この二つの悩みは深いところで繋がっている。
存在の重みに耐えられなくて壊れそうになる、という点で。

今も、この二つの悩みは根本的には解決していません。
解決できそうもないので、これからも抱え続ける悩みになるだろうと思います。
「似たような悩みを抱えた方にとって、こういう文章は気休め程度にはなるだろうか」などと淡い期待を抱きつつ、今日も僕はキーボードを叩きます。

少しでも役に立ちたい、と願うあまりに生じてしまった自己満足(あるいは自己陶酔)かもしれませんが・・・。

生きてる実感は夜風から

夜風に当たりながら、静まり返った町の車道のど真ん中を歩くのが好きだ。
風景だけは人が住んでいそうなのに、ひっそりとしていて、
そのなかを歩いていると、「生きてる」という感じがする。

躍動感をみなぎらせて本当に生き生きしている時は、
「生きてる」
なんて、きっと感じない。
「生きてる」と感じるのは、それが幾分過ぎ去った後なのだ。
幾分過ぎ去った後でもなお、そのことを感じ取れた時なのだ。

だから、おそらく、
熱帯雨林にいるよりも砂漠にいるほうが、「生きてる」と感じるだろう。
都会で生活しているよりも漂流して助かるほうが、「生きてる」と感じるだろう。

さっき、夜の町を少し歩いてきて、「生きてる」という感じがした。
僕は体温を持っていた。

死が怖い理由

おそらく、自分の死後の世界を思い浮かべられる人にとって、死はそれほど怖くない。また、自分の生そのものを肯定的に捉えない人にとっても、死はそれほど怖くない。
死が怖いのは、自分の生を根本的に肯定していて、なおかつ自分の死後の世界をまったく思い浮かべられないからだ。
というより、むしろ実感としては、
「自分の死を境に世界が存在しなくなる」
ということの怖さが耐え難い。


自分の死後の世界を思い浮かべられる人にとって、それはどのような世界だろうか。


まず、幽霊になった自分や、天国のような異世界で暮らしている自分を思い描く、というパターンがある。
この場合、実感としては、今生きている”この感じ”とそれほど大差はない。つらいところがあるとすれば、今まで住んでいた世界の人々とお別れをしなければならないのが悲しい、といったところだろうか。いわゆる、「永遠のお別れ」である。


次に、自分そのものは消滅してしまうが、その後も続いてゆく世界に思いを馳せる、というパターンがある。
この場合、「永遠のお別れ」と言うよりはむしろ、「後世に託して自らは消え去る」と言ったほうが近い。つらいのは、もはや後世について自らは関わることも知ることもできない、という現実だ。祈るような気持ちを後世に託して死んでいくのだろう。


でも、僕は、そのどちらも思い浮かべることができない。
端的に、「死んだらすべてが消滅してしまう」ということが悲しくて仕方がない。


古代エジプトの文明も平安時代も、確かに歴史のうえでは僕が生まれる以前に存在していたのだろう。でも現実には、それが存在するようになったのは、僕が学校で歴史を習ったり本を読んだりテレビでそれに関する番組を見たりしてからだ。今までに僕が見たこともなく、聞いたこともなく、想像したこともないものについては、現実に存在していないのだ。この現実こそが自分の生であり、あらゆるすべてはこの現実に収められている。・・・にも関わらず、その生がいつか必ず失われてしまう、ということの残酷さ。
古代エジプトの文明や平安時代のみならず、自分が生きてきた記憶と、その中にある自分にとってかけがえのない人々、そしてその人々とともに過ごした日々など、あらゆるすべてが死を境に消滅してしまう。もちろん、僕が死んでも、生きている人にとっては世界は粛々と存在し続けるのだろう。でも、そのことすら僕にはもう既にわからないのだ。もう、僕はいないのだから。




※ 2013年12月14日 追記

『続・死が怖い理由』 という記事を、2013年11月25日に書きました。


※ 2014年2月8日 追記

『死と喪失』 という記事を書きました。


※ 2014年7月13日 追記

『死が怖い理由と、虚しい理由』 という記事を書きました。


※ 2014年9月27日 追記

『死は怖くなくなる』 という記事を書きました。

人としての尊厳を守りたい

花粉症、真っ盛り。

ここ何年かは、僕の花粉症も影をひそめていた。でも、今年はさすがに花粉が多いらしく、くしゃみが止まらない。

僕: くしゃみの仕方は充分わかった。かなり得意になったから、もう終わりにしよう。

鼻: まだまだ得意とは言えない。もっと修行を積むのだ。

僕: ティッシュがなくなりそうだから、せめて、家に帰ってからにしてくれないか。

鼻: 加トちゃんにも勝てるくらい上達するまで、妥協は許されない。

僕: これだけやれれば、加トちゃんなんて敵じゃないだろう。ちょっと休ま・・・

そして、またくしゃみが出た。

とっさに口を手で抑えたが、鼻の機嫌を損ねたのか、鼻水まで飛び出してきた。

電車の中だったから、その手を降ろすに降ろせず、仕方ないので、もう片方の手でポケットティッシュを急いで探して一枚取り出し、手を拭きながら、鼻を拭いた。

鼻を拭くまでの間、時間が長く感じられた。

花粉症なんかに、人としての尊厳を失わされてたまるか・・・。

いったい何の恨みがあって、僕に、くしゃみをする直前のあの表情をさせるのか。

鼻の奴め、いつのまに花粉症に手なずけられたのだろう。

ティッシュも底をつき、ハンカチも水浸しになって、泣く泣く袖を使う僕の気持ちをわかっているのだろうか。

体内の貴重な水分を、花粉のために惜しげもなく使いやがって。

食べる時、息ができないじゃないか。

分業、という言葉の意味をわかっているのか?

花粉はもとより、鼻の裏切りにとても腹が立つ。

鼻ータス、おまえもか。