私たち自身が世界を「視る」多様な切り口となって | 考えすぎ

私たち自身が世界を「視る」多様な切り口となって

同時に無数の切り口から「視る」ことはできない。
3次元の物体を理解するのに
平面図、正面図、展開図、等々さまざまな切り口の2次元写像に落とし込んで理解する必要があるのは、
そうする以外に記録して共有する方法が無いからだ。

共有する必要が無ければ、わざわざ、こんな面倒くさい作業は要らない。
そもそも、どんなに無数の切り口から観察しても全体を捉えたことにはならない。
それは細分化された無数の断片情報を集めたものでしかないからだ。
(もちろん、元の全体をおおまかに復元するのには、それで充分な場合も多い。)

しばらく生きていると、
ある経験や気付きを境に、世界の「視えかた」が変わってしまうことがある。
それは、世界の切り口が変わったことと同義なのだと思う。
どちらの切り口が、より優れている、とか、そういうことは無いのだろう。
それぞれに長所も短所もある。
どれか一つの切り口だけで全体を賄える、ということは無さそうに思われる。

私たちは生きながらにして、各々の切り口から世界を視ている。
その切り口を持ち寄って話し合っていけば、
世界のおおまかな全体像を捉える道も拓けていくのではないか、と思っている。