統計学的な観点の限界
『もし世界が100人の村だったら』。
統計学的な観点から人類社会についての思考実験を提示して問題提起した、言わずと知れた良書だけれども、
当然ながら、統計学的な観点だけで物事の“すべて”をきちんと認識できるわけではないし、
この見方だけに特化してしまうと、世界に対する認識を矮小化してしまうことになる。
おそらく、このことは著者自身がもっとも熟知されていることだろうと思う。
しかし世間では、ひとたびインパクトのある視点が提示されると、とかく持ち上げられ神格化されやすい。
そうしたほうが扱いやすくなるからだろう。
今日の資本主義経済におけるビジネスシーンにおいて、その傾向が顕著に見られる。
真っ当で冷静な提言をしていても、それが“神格化”されてしまうと、
当初、発信者が意図した本来の内容が伝わりにくくなるばかりか、むしろ尾ヒレのほうが主体のようになって広く認識されるようになり、社会的に実体化していく。
ブッダの最大の誤算は、自身の死後、多くの人々から“神格化”されてしまったことなのではないかと思う。
誤算、と言ってもブッダの死後のことだから、別にブッダ自身それを気に留めているわけでもなかったかもしれないけれども。
情報伝達の高速化が著しい現代社会においては特に、
「印象」とか「雰囲気」に呑まれた判断が増えやすい。
そういう状況の中、慎重に思考し感覚したことを発信する上で、もっとも警戒するべきなのは
“神格化”されてしまうことかもしれない。
まさか自分が、と大抵の人は思うだろうけど(私もそう思っているけど)、
もし仮に、ひとたび“神格化”の流れが始まってしまうと、これを覆すことは並大抵の努力では難しくなる。
現に、キリスト教圏においても仏教圏においても、
数々の歴史的事実の中で、繰り返し示されてきた通りである。