開放系の世界を生きている
私たちが過ごしている世界は、(閉鎖系でも孤立系でもなく)基本的に開放系の空間です。
しかし、開放系をそのまま認識することは困難です。
脳の仕組みは、それを省略して捉えることに成功しています。
そうして捉えられた世界は、大抵うまく閉鎖系あるいは孤立系に変換されています。
この変換を厳密かつ技術的に行う学問があります。
数学です。
数学における開放系の典型としてよく知られている「無限」。
そのままでは扱いにくいので、記号を充てて置き換えることによって数学的操作を可能にしています。
数学は、こうした“置き換え”を得意としていて、
“置き換え”のプロフェッショナルだと言っても過言ではありません(それを目的としている学問ではないのですが、“置き換え”の技術が欠かせないため自然と磨かれてしまうのです)。
数学は、もともと開放系である対象を便宜上、閉鎖系あるいは孤立系に置き換えていることを明確に認識し続けていますから、
それらを途中でごっちゃにしたりすることはありません。
しかし、脳の場合は違います。
「開放系の対象であることを便宜上、閉鎖系あるいは孤立系に置き換えている」と認識し続けている状態は、
実質的に開放系を認識し続けようとしていることとあまり変わらないため、
脳にとっての負荷が大き過ぎてしまいます。
そこで脳は、さらに「忘れる」という選択を採ります。
もともと置き換え可能な対象だから、置き換えたまま忘れても(証明問題を解くのでもない限り)支障はありません。
置き換えたことをいつまでも覚えているために消耗するエネルギーは、日常生活を送る上では余分になってしまうので、脳は忘れようとします。
(その代わり、後々忘れて困ることがないように人類は記録という方法を採って開発し、その技術を高め続けてきたのだと思います。)
生きる術、本能的なサバイバル術の一環です。
しかし、それが仇となって、物事の本質をうまく認識できないまま
「うまく認識できていない」ということに気付くことも難しくしています。
見ようによっては、脳の働きは言わば諸刃の剣、
自分を騙しながら生き延びようとする極めて複雑でトリッキーな高等テクニックを常に行使しています。
案外ドライで現実的なのは、脳のほうなのかもしれません。
その脳も、求めれば数学を理解することもします。実に柔軟で強かな器官です。
身体を壊したり自死に追い込んでしまうようなことになってでも、最大限、求めに応じようとして働く器官、
それが脳なのだと思います。
何を求めるか。
それは私たちに委ねられています。
だからこそ、慎重かつ大胆に、のびのびと、
本当に求めることを求めていきましょう。
脳は(身体も)、ずっとそれを待っています。きっと今も。