サルトル
『西洋哲学史』
の、『5.5.サルトル』を書き上げました。
あとは、結びの文章、『終わりに』を書くだけ。
この結びが、僕にとっては一番重要です。
書き始めてから1年半近くになりますが、
その労力を、すべて水の泡にしなければいけないからです。
今の状態では、
普通の西洋哲学史とあまり変わりません。
というか、むしろ情報量が少なすぎて、
とても西洋哲学史と呼べる代物ではありません。
そもそも、僕の関心は、西洋哲学史にはないんです。
『始めに』で書いたように、
僕の関心は、「前提」にあります。
「前提」を知る、ということと、
その「前提」が「前提」でなくなる、ということは、
ほぼ同時に起こります。
その辺の事情について、『終わりに』で触れようと思っています。
最も大切なのは、
『終わりに』の書き手自身が持つ前提についてです。
このことに『終わりに』のなかで触れた時、
すべてが水の泡になると同時に、確かな何かが残ると思うのです。
あるいは、何も残らないと思うのです。
あとは、結びの文章、『終わりに』を書くだけ。
この結びが、僕にとっては一番重要です。
書き始めてから1年半近くになりますが、
その労力を、すべて水の泡にしなければいけないからです。
今の状態では、
普通の西洋哲学史とあまり変わりません。
というか、むしろ情報量が少なすぎて、
とても西洋哲学史と呼べる代物ではありません。
そもそも、僕の関心は、西洋哲学史にはないんです。
『始めに』で書いたように、
僕の関心は、「前提」にあります。
「前提」を知る、ということと、
その「前提」が「前提」でなくなる、ということは、
ほぼ同時に起こります。
その辺の事情について、『終わりに』で触れようと思っています。
最も大切なのは、
『終わりに』の書き手自身が持つ前提についてです。
このことに『終わりに』のなかで触れた時、
すべてが水の泡になると同時に、確かな何かが残ると思うのです。
あるいは、何も残らないと思うのです。