世界音痴について(対談) | 考えすぎ

世界音痴について(対談)

この記事は、
『精神世界と内面世界を語り合おう』 ブックの製作者Angelaさん との対談
を掲載したものです。


テーマは、「世界音痴について」。
対談はメールのやりとりにて行いました。
ちなみに、「世界音痴」という言葉は、穂村弘さんの造語です。
まず、穂村弘さんが書いたエッセイ集『世界音痴』を読み、その本の解説を書き合うことから始めました。


以下は、その対談の内容です。




~ 本の解説 [まこっちゃ] ~

周囲の人々は、
場の空気を読んだり、うまく話に割り込んだりしながら、
自分の立ち位置をしっかり確保して生きている。

でも自分には、それがわからない。
どうやったら、自分は、世界の仲間入りを果たすことができるのだろう?
・・・自分には、決定的な何かが欠けている。
周囲の人々には普通にわかることが、自分にはわからないのだ。
だから、いつまで経っても世界の中に、入れない。

こうした思いを「世界音痴」と名付け、
(出版当時)39歳の歌人、穂村弘が、自らの体験をもとに綴ったエッセイ集。


~ 本の解説 [Angela] ~

この本の「あとがき」に

『今の私は人間が自分かわいさを極限まで突き詰めるとどうなるのか
自分自身を使って人体実験をしているようなものだと思う』とあるんだ

さらに
『主人公は私、大切なものは私の夢』
と著者は言い切る

すごい!すごすぎる!

みんながこんな風に生きられれば

この世から心因性の病は消える
カウンセラーもいらない

世界音痴な著者の日常生活を
マニアックに描いたエッセイと見せかけて

実は人生の意味と生きる意味の神髄が
この本には凝縮されている

自分らしく生きるとはつまりこういうこと
まったく知性とユーモアにあふれた人だよ



テーマ1 「世界音痴」とは何か?

—[まこっちゃ]—

僕がこの本の存在を知った時、何よりもまず、「世界音痴」という表現そのものに強く共感しました。
つまり、僕は世界音痴なんです。「不器用だ」とか「要領が悪い」とかも僕は言われがちですが、不器用であっても世界音痴でない人はたくさんいます。不器用なら不器用なりの、世界との付き合い方がちゃんとあるからです。
音痴というのは、「どの音が正しいのかわからない」ということですよね。それに対して、(歌唱能力について言えば)不器用というのは、「音がうまく出せない」ということにあたると思います。だから、音痴と不器用は、その意味で全然違うと思うんです。どの音が正しいのかわかっているなら、その音がうまく出せなくても、不器用なだけで音痴とは言われません。
音痴な人は、自分の音のどこが変なのか、よくわかっていません。でも、笑われたりして、「どうやら自分の音は変らしい」ということに気づくことならできます。同じように、世界音痴な人は、自分の生き方のどこが変なのか、なかなかわからない。でも、周りの人には普通にわかることが自分にはわかっていないらしい、ということだけは感じ取っています。・・・僕にとっての「世界音痴」は、こういう感じです。

ところで、Angelaさんが書いた紹介文に「自分らしく生きるとはつまりこういうこと。」とありましたが、Angelaさんにとって、「世界音痴」とはそういうことなんですか?

—[Angela]—

「世界音痴」な人って

自分だけのルールとか
自分だけの価値観とか
自分だけの王国で生きてる人って感じがする

国が違えば
法律も違うし
常識も違うし
習慣も違うよね

それが世界とのズレ

でも自分の王国がある人って
幸せだと思うの

たぶん恋人とか
気のあう友達とかと一緒にいるよりも
心地いい一人の空間だと思う

自分らしさとは
そういう空間を得て
発揮できるものだと思うんだ

世間とか親とか常識とかに縛られて
苦しんでいるよりも

世界とのズレを認めつつ
まわりからの変人扱いを受け入れ
自分らしい表現で生きていければ

これほど幸せな生き方はないんじゃないかって
そんな風に思うんだ

—[まこっちゃ]—

自分だけの世界で生きているから、世間一般に比べると「変な世界」になってしまう、ということですね。そして、そういう世界で生きているのが「世界音痴」な人であり、そういう生き方こそが自分らしい生き方なのだ。・・・ということでしょうか。

でも、僕には、「世界音痴」な生き方がそれほど素晴らしいものだとは思えません・・・。
もちろん、自分だけの空間の中にずっといられれば、自分らしい表現で生きていけるかもしれないです。でも、一歩、外に出れば、自分にはわからない謎の空間がひしめきあっていて、その中をくぐり抜けて行かなければならない、という現実があります。「世界音痴」な人にとって、これは、かなり過酷な現実だと思います。穂村弘さんの独特の世界には、特有の不思議な魅力を感じます。でも、「世界音痴」にならずに済むものなら「世界音痴」になんかならないほうがいい・・・と、僕は思います。

そうは言っても、現に「世界音痴」な人がいて、その人たちは「自分のどこが変なんだろう」という悩みで、日夜、頭を抱えているわけです。だから、その人たちに「そう思っているのはあなただけじゃないよ」と教えてくれる存在という意味では、穂村弘さんのエッセイ集は、とても貴重なものだと思います。・・・というか、僕にとっては、そういう本なんですが・・・。

—[Angela]—

まこっちゃんは自分を
世界音痴な人間だと言った

そして「世界音痴」な生き方が
それほど素晴らしいものだとは思えないと

でも・・・
この本の中の『世界音痴な穂村さん』は
とても幸せそうなんだよ

世界とのズレがあっても
変人扱いされても
多くの人が経験するような事を
殆ど経験していなくても

毎日が楽しそうなんだよ

世界音痴なはずなのに
なぜだと思う?

それは世界音痴な自分を
受け入れているからじゃないかな

開き直っているとも言えるけどね

自分の境遇から逃れようとせずに
そこで生きていこうという覚悟がある

そこしか自分の生きる道はないと
そういう自覚を持っているような気がする

そしてそこで生きる術を見いだした

なんかそんな風に
Angelaは受け止めてるんだ

まこっちゃんが自分のブログのコメント(※)で
自分を皮肉って・・・

「中途半端の達人を目指そうか」

・・・って言ったけど
これって的を得た発言だなって思った

「完璧」なんていう幻想を目指す事をやめて
自分の今の立ち位置で達人になる

それが世界音痴な人間の
最良の生き方じゃないかなって思うよ

(※ まこっちゃのブログの記事『足踏み』 内のコメントのこと)

—[まこっちゃ]—

「世界音痴」に生まれついてしまった人にとっては、おっしゃる通り、穂村弘さんのように自分の生き方をむしろ積極的に貫いて行くことが幸せになる秘訣なのかもしれない、と僕も思います。
でも、「世界音痴」な人だって、いわゆる普通の生き方を羨ましく思っていた時期もあって、ところが皆と同じようにはなれなくて、
・・・だから諦めて結局、穂村弘さんのように自分の生き方を引き受けて生きるしかなくなっていくのだろう、という気がするんです。もっとも、「最終的に自分の生きる道を探し当てたのだからそれが最高だ」とも言えるのかもしれませんが、「世界音痴」な生き方が初めから無条件に手放しで喜べるほど素晴らしいものだとは、やっぱり僕には思えません。
そういう意味で、「世界音痴」な感覚があまり美化されるのには少し違和感があります。むしろ、この感覚は、醜くアンバランスかつ個性的な欠点として、そのまま抱え続けるものなのではないですか?・・・少なくとも、その本人にとっては。

「中途半端の達人を目指そうか」
という発言は、半分、本心からのものです。と言っても、最良の生き方とか、そんな大層なものではなくて「もう僕はそうするしかない」という感じです。

なんか、どうしても違和感があるんですよね・・・。「世界音痴」な感覚をあまりにも肯定されてしまうと。
個人的には、「世界音痴」は決して嫌いではなくて、むしろ好きなくらいなんですが、Angelaさんの話しっぷりがあまりにも肯定的なので(笑)。

—[Angela]—

「世界音痴」という言葉を知って
この本を読み始めるまでは

きっと悲壮感漂う本で
苦しく辛い日々が
淡々と描かれている
さぞかし暗くて重い
内容なんだろうなって思ってたの

まさかね~

こんなに大声張り上げて
笑えるようなエッセイだと
思ってもみなかったよ

Angelaも世界音痴なんだ

生きにくかった
違和感を感じまくりだった
変人扱いは四六時中だった

その当時はイヤだったかな~

でも今は全然何ともない

何ともないどころか
きっと穂村さん以上に

人生をまったく
自分本位に楽しんでる

それは自分だけの
居心地のいい世界と
違和感のある世界の間に
パイプを作ったからなんだ

社会との接点とも言える

自分だけの世界って
作ろうったってできないんだ

まこっちゃんの言葉を借りれば
「もう僕はそうするしかない」

そこまでなかなか
自分の生き方を限定できない

生き方が限定できなければ
「自分らしい生き方」なんて
永遠に見つけられないんだよ

まこっちゃんが
世界音痴を肯定され
美化されることに
違和感を感じるのは
それはそれでいいんだ

人の数だけ
物事には感じ方があるし
捉え方があるんだから

Angelaはなんたって
まこっちゃんの「究極の選択」(※)で
『美』を選んだんだもの~~

なんでも美化する癖がある(笑)

そういえば

「究極の選択」は
とてもよく考えられた
質問だと思うんだけど

この質問を考えたキッカケと
5つの選択肢を選んだ訳を聞きたいな

(※ まこっちゃのブログの記事『究極の選択』 のこと)
(→ Angelaさんの回答はこちら

—[まこっちゃ]—

あの五択の質問は・・・

昔、テレビか何かで、
「Aを選んだ人は、究極的な場面で『正義』を重んじる」
「Bを選んだ人は、究極的な場面で『愛』を重んじる」
といった具合に結果が出てくる心理テストを見たことがあって、その時、僕は、テストの結果としてではなくて、そのものずばりをいろんな人に訊いてみたいと思ったんです。

心理テストでは、確か、「正義」「愛」「真実」の三択でした。そこに「美」を追加したのは、当時、身の回りの友達に、何よりも「美」を選んで生きようとしている感じの人が何人かいたからです。あと、心中は「生命」よりも「愛」を選ぶ行為だ、ということや、医師が患者に本当の病名を知らせずに励まそうとすることは「真実」よりも「生命」を選ぶことだ、ということを考え合わせて、最後に「生命」を追加してみました。
ほかに、「お金」や「時間」ということも考えましたが、この二つは他の何かを守るために使うことはあっても、それ自体が最後まで守り抜くべきものだとは考えられないような気がしたので、選択肢には加えませんでした。

以降、行く先々で、あの質問をいろんな人にしています。思えば、かなり「えいやっ」と決めてしまった五択の質問なんですが、質問してみると、人それぞれのスタンスの違いが垣間見えて、すごく面白いんですよね。Angelaさんは「美」を選ぶということでしたが、僕は「真実」を選びます。「世界音痴」が美化され過ぎることに抵抗を感じてしまうのも、そのせいかもしれません。どうしても、「本当にそんなに美しい?」と思ってしまうので(笑)。



テーマ2 「世界音痴」との付き合いかた

—[まこっちゃ]—

「世界音痴」な生き方も、居心地のいい世界と違和感のある世界の間にパイプを作ってしまえば楽しい。・・・それは、本当にその通りだと思います。居心地のいい世界を葬り去ることはできないけれども、違和感のある世界の中で孤立してさまようことも苦しい。だから、この二つの世界を自由に行き来できるようにしてやればいい。

でも、そうできるようになるためには、具体的にどうすればいいのでしょうか?
僕も「世界音痴」で、Angelaさんも「世界音痴」。だとしても、どこがどう「世界音痴」なのかは少しずつ違うと思うんです。だから、二つの世界の間にパイプを作る方法も、それぞれ違うと思います。にも関わらず、「世界音痴」な人と、そうでない人がいて、Angelaさんや僕が「世界音痴」な人に分類されるのだとしたら、その分け目は、いったいどの辺りにあるのでしょうか?・・・その分け目が見えてくれば、「世界音痴」な人が「世界音痴」と上手に付き合うための共通項も見えてくるような気がするんですが。

—[Angela]—

二つの世界を自由に行き来できる方法
二つの世界にパイプを作る方法

具体的にはね

自分の世界のアイテムを使って
それを「仕事」にしてしまうことなのよ

社会との接点
社会とのパイプ

それはお金を通じて
うまく循環させられる

Angelaはそう思った

ただね~
最近はちょっと違う見解もある

これだけインターネットが普及して
ブログも普及すると

誰もが表現者になれるんだよね

誰もが自分だけの世界を
世間に向けて発信できる

そしてネットは
インタラクティブな世界なので

共感した人たちと
交流さえできる

それもつまりは
社会とのパイプになるんだよ

だから今のこの世の中なら
あえて自分の世界のアイテムを使って
仕事にする必要もないのかなって気はする

「世界音痴」じゃない人っていうのは
レールからはみ出そうとしない人だと思うよ

レールに乗っている自分に
疑問を持たない人

レールっていうのは
いろいろあるけど

例えば・・・
義務教育から始まって
高校や大学、大学院とか行って
その後就職
定年までずっと同じ職場

女性なら就職のかわりに
結婚して専業主婦かな

結婚したら一生を
その人と添い遂げる

そんなレールの上で生きている人は
レールから外れた人のことは理解しにくいよね

そういう「違い」を
キチンと認識していれば

ある程度距離を保ちつつ
お互いにうまく
つきあっていけるかもね

—[まこっちゃ]—

なるほど・・・。つまり、大雑把に言えば、
「世界音痴」であるということは、レールにうまく乗っかったまま進むのが下手くそだ、ということですね。それが良いのか悪いのかは別としても。

人間、物事が順調に運んでいる間は、特に何の疑問も抱かないと思うんです。レールに乗っている自分に疑問を抱くのは、どこかうまく乗っかることのできない自分がいるからですよね。そもそも疑問を抱くということ自体が、そういうことだと思います。
当たり前のようにレールに乗って、当たり前のようにそのまま突き進んで行く人には、レールから外れる(そしてさらにレールそのものにも疑問を抱く)人の気持ちはなかなかわからない。・・・これは仕方のないことでしょう。レールに乗って生きてきた人から見れば、わざわざレールからはみ出そうとする人の気が知れないのは当然のことだと思います。

大切なのは、生き方の「違い」を互いにきちんと認識すること。・・・その通りですね。
ただ、よく考えてみると、「違い」をきちんと認識している場合と、「違い」を認識しているつもりになっている場合と、実は二通りの可能性があります。今、世の中には、「わかったつもり」や「認識しているつもり」から出てきた言動が溢れかえっているような気がします。
「違い」をきちんと認識するにはどうすればいいのでしょうか。それから、「違い」をきちんと認識するとはどういうことなのでしょうか。・・・このことも、「世界音痴」とは別に、僕の中では大きなテーマです。

ところで、
「自分の世界のアイテムを活かして『仕事』にしてしまう」
という話がありましたが、言われてみれば、自分の「世界音痴」と世間(あるいは社会)をうまく繋ぐ最善の方法はそれに尽きるような気がします。僕の場合も、現にそうでした。
今まで自分の欠点だと思っていたこと(そのほとんどは、自分の「世界音痴」に由来するもの)こそが、用い方によっては非常に社会の役に立つのだ、ということを特に最近、強く感じています。とは言っても、そのまま役に立つわけではないんですけどね。あくまでも「用い方によっては」なのだと思います。だから、自分の欠点を何らかの形で活かす技を身につけるまでの間は、とても苦しいです。
・・・そういうことから考えてみても、確かに、インターネットで意見交換できる今のこの環境は、「世界音痴」な人間にとっては恩恵とさえ呼べるものかもしれません。「仕事」にできるようになる前の段階から、自分の世界を世の中に発信していけるわけですから。しかも、社会的組織を介さず、直接、相手に届けることができます。その点では、僕は、なかなか良い時代に生まれたものだと思います。

—[Angela]—

「違い」を
きちんと認識するとは・・・

これはね~
「世界音痴」か否かに限らず
言える事だと思うんだけど

「違い」に勝負を挑まない事だと思うの

言い方を変えれば
「正しい」とか「間違ってる」とか

自分の価値観で
判断したり、決めつけないこと

「わかったつもり」って

結局自分の価値観でしか
それを捉えてないんだよね

自分の価値観で
「違い」は認識できない

もっと噛み砕いて言えば
「違い」を認識するとは

自分との違和感や
それこそ嫌悪感ですら

丸ごと「受け入れてしまう事」
だと思うんだ

正義も善悪も
そこには入る余地はないんだよ

だってどっちが良いとか悪いとか
それすら誰かの価値観だからね



「世界音痴」の定義について
さっき話したけど

ちょっと微妙な
ポジションもあるので補足を・・・

レールに疑問も抱いてなかったのに
レールから外的要因で
振り落とされる人もいるんだよ

例えば

リストラにあうとか
離婚をつきつけられるとか

自らの意志で
レールを離れたわけじゃない人

そういう人たちを見ていると

初めはレールに戻ろうと
もがいてるんだけど

結局戻る事をやめるんだよね

レールに戻ろうとする人が少ないのが
とても興味深いなって思ってる

『自分の欠点が用い方によっては社会の役に立つ』

世界音痴は
欠点のようで実は個性なんだ

それを自覚した時に
自分の人生の突破口が
できるんじゃないかって

そんな風に思うよ




~ 対談を終えて [まこっちゃ] ~

Angelaさんらしい感じもしますが、「世界音痴」であることがこれほど絶賛されてしまうとは思いませんでした(笑)。
でも、この対談を通して、「世界音痴」に関する要点がよく整理されたと思います。

初めのほうでも述べましたが、
「世界音痴」は、不器用であることや要領が悪いこととは少し違います。
「世界音痴」とは、「世間で正しいとされていることがピンと来ない」状態です。
・・・「つまりそれは、自分の世界を持っているということだ」と、Angelaさんの評価はとても肯定的でしたが。

僕は、Angelaさんほど前向きではありません。
それでも、「世界音痴であるということは大きな個性があるということだ」とは思います。
個性は活かしかた次第で自分だけの武器になりますから、
「世界音痴」に生まれついた人は、それを活かす道さえ見つけられれば、誰にも盗まれない強力な武器が手に入る可能性を秘めている、とも言えると思います。

Angelaさんも僕も「世界音痴」だ、という話でしたが、
考えてみたら、誰もがみな実は「世界音痴」なのではないか、という気がしてきました。
世界がわからなくなる瞬間とか、
世の中に溶け込めない自分とか、
そういうことを誰もが感じていて、でもそれを表には出さずに胸のうちにしまいこんでいるだけではないのだろうか、と。
・・・いろいろな人の意見を聞いてみたいです。


~ 対談を終えて [Angela] ~

誰もがみな多少なりとも
「世界音痴」だとAngelaも思うよ

世界とのズレを感じ
疑問を抱えながら

レールの上にいながらも
葛藤を続けていると思う

レールから飛び出して
自分の世界で生きていくのも

レールの上で
折り合いをつけながら
生きていくのも

どっちが良いとか
どっちが悪いとか

それもまた
決められるものでもないし

人の満足感は
その人にしかわからないけれど

自分らしい人生とは

ズレとか違和感なんかと
さんざん格闘したあとに
やってくると思うんだ

まこっちゃんは
今まさに格闘中だ

Angelaはある程度の
格闘を終えている

こんな二人が語り合うと
どういう形になるのかな~と
楽しみながらの対談だったけど

相変わらずいつものように
鋭いところを突いてくる、まこっちゃん

Angelaは対談をしていて
まこっちゃんから
たくさんの気づきをもらったよ


この記事を読んだ人が
自分なりの「世界音痴」な部分に目を向けて

それについて考えてもらえたら、と思います


穂村 弘
世界音痴