考えすぎ
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見守る

困っている人、苦しんでいる人を
辛抱強く見守ることほど難しいことはない。

余力さえあれば、落ちそうな人を引っ張り上げるのは容易い。
が、本当に重要なのは、自力で苦境から抜け出せること。
ハラハラしつつ、最悪の状況も覚悟しながら本人の回復や成長を見守るのだ。

助けるより遥かに難しい。

いろんな人がいる

いろんな人がいるから、人生は面白い。
いろんな人がいるから、人生は難しい。
いろんな人がいるから、人生は哀しい。
いろんな人がいるのだ、人生は。

一人称の主語が表す範囲

一人称の主語が表す範囲は、思っているほど自明ではない。

キリスト教の文脈で言う汎神論者のように、
一人称の主語が「宇宙全体」を表している場合もあれば、
多くの環境活動家が訴えるように「地球全体」を表している場合もある。

一人称が、単数形か複数形かも捉えかたによって異なる。
地球全体を「ワンネス」として捉える人もいれば、
異なる無数の魂の集合体としての「私たち」と捉えている人もいる。

同じ一人の人間の中でも、人格が一人だけとは限らない。
むしろ、少なからず複数の人格が一人の身体を共有していることのほうが普通だと思う。
「一つの身体に一つの人格が一貫する」ことを求めるのは、
例えば投票制度における一人一票の原則を成り立たせる等の都合のために必要な
社会的な約束事に過ぎない。
(ここで「過ぎない」と表現しているからといって、これを軽んじるつもりは少しもないし社会的に必要なことだと思っているし社会生活において従うべき約束事だとも感じている。)

一人称の主語が表す範囲は、思っているほど自明ではない。

電気とお金は似ている

便利だからって、何でも電気に頼ると生活の融通が利かなくなる。
簡単だからって、何でもお金に換算すると生活の質が貧しくなる。

利便性と安全性はトレードオフの関係にある。
効率性と充実性もトレードオフの関係にある。

私たち自身が世界を「視る」多様な切り口となって

同時に無数の切り口から「視る」ことはできない。
3次元の物体を理解するのに
平面図、正面図、展開図、等々さまざまな切り口の2次元写像に落とし込んで理解する必要があるのは、
そうする以外に記録して共有する方法が無いからだ。

共有する必要が無ければ、わざわざ、こんな面倒くさい作業は要らない。
そもそも、どんなに無数の切り口から観察しても全体を捉えたことにはならない。
それは細分化された無数の断片情報を集めたものでしかないからだ。
(もちろん、元の全体をおおまかに復元するのには、それで充分な場合も多い。)

しばらく生きていると、
ある経験や気付きを境に、世界の「視えかた」が変わってしまうことがある。
それは、世界の切り口が変わったことと同義なのだと思う。
どちらの切り口が、より優れている、とか、そういうことは無いのだろう。
それぞれに長所も短所もある。
どれか一つの切り口だけで全体を賄える、ということは無さそうに思われる。

私たちは生きながらにして、各々の切り口から世界を視ている。
その切り口を持ち寄って話し合っていけば、
世界のおおまかな全体像を捉える道も拓けていくのではないか、と思っている。

舵を握る

自分の人生の舵は、
やっぱり自分で切らなきゃね。

「失敗してもいいんだ」と思えるようになってから

失敗してもいいんだ

と思えるようになってから、いい感じにリラックスしている。


切り替えも前に比べたら早くなったし、見切りをつけるのも早くなった。

その分、一瞬一瞬を大事にできるようになっているような気がする。

結果は同じでも、品のある態度で。

笑いにも遊びにも、“品”は大切だと思う。

品がない笑い方や遊び方は、誰かや何かをむやみに傷付ける。
生きているだけで何かを傷付けてしまうこと自体止むを得ないが、
むやみに傷付けていいわけではないし、またそのことに無自覚でいいことにもならない。

たとえ結果は同じでも、態度が違うのだ。

「自分の余裕を最優先します」宣言

生命に直接関わることや、法に触れることでない限り、
私は自分の余裕を確保し、維持することを最優先します。
そのほうが、あなたにとっても私にとっても
長期的に見ればより良い状況をもたらすと常々感じているし、そう信じるからです。

つい忘れてしまいがちだからこそ尚更、
こうして宣言します。

ちなみに、生命に直接関わることや、法に触れることのような場合には、
そもそも余裕を保ってなどいられなくなるはずですので、
いずれにしても可能な限り余裕の維持と確保を最優先する、ということになると思います。
それによって生じた犠牲や不利益については、
私がその原因を作ったことを、知り得る限り自覚し、また自覚できるようであろうと努めるつもりです。
自覚してもなお、上記の例外を除き自分の余裕を最優先することに変わりはないのですが。

心の準備

心の準備さえ出来ていれば、
物の準備は要らないのかもしれない。

でも実際には、
心の準備は難しい。
心の準備を整えるために、物の準備が必要なのかもしれない。
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